巨黍県
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地名の由来
沿革
- 百済の統治下、滅烏(ミョロ)県であった。
- 475年、高句麗軍が大々的に南侵して百済の都であった漢城陥れた後、高句麗の領土になった。 高句麗によって駒城県が設けられた。
- 聖王の時代に、百済が領土を回復したが、真興王によって新羅の領土に編入された。
- 南北国時代の757年(景徳王16年)行政体制改編で巨黍県に改名し、漢州(京畿道広州郡)の直轄地となった。
- 高麗時代に龍駒県と改名した。ただし、独立した行政単位ではなく、広州牧(광주목)の属県であった。
- 1172年(明宗2年)監務が設置された。
- 朝鮮王朝(李氏朝鮮)に入り、1413年(太宗13年)に処仁県と統廃合された。 龍駒の「龍」と処仁の「仁」を取って龍仁県と改名され、県の治所(県庁)が巨黍に置かれた。水原鎮管に所属する従五品の県令が派遣された。
- 朝鮮末期に、面里制によって16面が区切られた。
- 1895年、二十三府制により行政区域が再編され、県制度が廃止されたため、郡に昇格して忠州府(チュンジュブ、충주부)が管轄する龍仁郡となった。
- 治所が、水余面(수여면)巣鶴洞(소학동)へ移転した。