永享年間(1429~1440)に、島津氏守護代の経歴をもつ酒匂氏が記した『酒匂安国寺申状』の中で弘安2年(1279年)から7年(1284年)まで、島津忠久の孫の久時と市来政家が系図相論をしたことが書かれている。この文書は、島津家が守護職に復職した経緯が書かれており、一族の強権支配が在地領主の反発を招いていたことを示している。久時に対し、本来同族でありながら権柄ずくで「恩顧を受けている者」として遇されることに不満を抱いた市来政家が忠久の父は惟宗忠康だと主張して同じ惟宗氏である事を訴えた相論である。島津家側は自らが惟宗氏の出身であることは認めたが、忠久は広言の子であり同じ惟宗氏でも家柄は違うと反論した。どのような形で尊卑論争が終結したかは記されていないが、島津家の系図がその後も忠久の父は惟宗広言としてきた事から、島津家の主張が通ったものと思われる。
その後、島津氏は頼朝後胤説を称し、一般的に忠久は頼朝の子として定着してはいるが、市来氏の主張した忠康が最近見直されている。下記はそれぞれ奉行所に提出したとされる系図。
- 島津家側が提出した系図
- 基言-広言-忠久(島津)-忠時-久時
- 市来家側が提出した系図
- 知國-國廣-忠友-忠康-忠久(島津)-忠時-久時
- 知國-友廣-康友(執印)-友尚(国分)-友成(国分)-政家(市来)