島津立久

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別名 安房丸(幼名)、又三郎(通称
 
島津立久
時代 室町時代
生誕 永享4年11月5日1432年11月27日
死没 文明6年4月1日1474年4月17日
別名 安房丸(幼名)、又三郎(通称
神号 豊廣竜雲根命
戒名 節山玄忠大禅定門
墓所 鹿児島県鹿児島市福昌寺
法城山龍雲寺
官位 修理亮陸奥守
幕府 室町幕府薩摩大隅日向守護
氏族 島津氏
父母 父:島津忠国、母:心萃夫人(新納忠臣の娘)
兄弟 友久立久久逸勝久忠経守棟
忠弘頼久、娘(伊集院煕久室)
鏡堂夫人(伊東祐堯の娘)、芳雲夫人(島津用久の娘)、茂山夫人(梶原弘純の娘)
忠昌
花押 島津立久の花押
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島津 立久(しまづ たつひさ)は、室町時代守護大名薩摩大隅日向守護。島津氏第10代当主。9代当主・島津忠国の次男。子に忠昌。幼名は安房丸、通称は又三郎。官位は修理亮陸奥守

父が文明2年(1470年)に死ぬまで守護であったため、立久が当主としての治世は4年間に過ぎなかったとされているが、実際には父と家臣の対立から長禄2年(1458年)頃から家臣団によって忠国を排除する計画が進められ、長禄3年(1459年)10月以前には立久が新納忠治樺山長久ら重臣の力を借りて父を追放して家督を奪取して、事実上の守護となっていた。

寛正3年(1462)に立久は、市来氏を攻めて勝利し、市来に竜雲寺を建てた。市来氏(イチキシ)は中世、「市来院」(いちきいん)と呼ばれていた。市来氏が治めた鹿児島県いちき串木野市には、鶴丸城(市来鶴丸城・御惣坊城)があった。市来忠家と島津氏久の時代(14世紀後半)には婚姻関係を結ぶなど良好な時もあったが、最終的に寛正3(1462)年、島津家10代当主・立久が市来氏を攻め市来氏は滅び、島津氏の直轄地となった。その後、鶴丸城は島津家の間の争いの舞台ともなり、天文8(1539)年、薩州島津家の実久の勢力下にあった市来城を島津貴久が攻め落とし支配下に置き、山田有徳、新納康久などが地頭となっていた。江戸時代も島津氏の直轄地となり、武家集落である「麓」(ふもと)が形成され、現在も「麓」に関わる地名が残っている。

日向の伊東祐堯と和睦して婚姻を結んだことで、日向国への影響力は低下したもの、薩摩・大隅の経営に専念したため、領内は平穏な日々が続いていた。また、兄弟を領内の要地に配置するとともに、一族や重臣達に対しても伊作氏伊作城から櫛間城へ、新納氏志布志城から飫肥城へ移封させるなどの配置換えを行って彼らを牽制し、守護領を拡大させることで地位の安定化も図られた。更に琉球李氏朝鮮とも交易を盛んに行っていた。応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こり、2年後には東軍の細川勝元に味方したが、勝元の出兵要請は拒否して出陣せず、名目上の東軍であった。一方、叔父の豊州家当主島津季久は西軍の山名宗全に味方していた。これは、応仁の乱に際して他の諸大名と同様に、どちらが負けても家が存続するようにしていたためである。

文明3年(1471年)、桜島が大規模な噴火を起こし、立久没後の文明8年(1476年)頃まで続いた。噴火による降灰は農地に多大な被害を与えたために被災地であった日向・大隅方面に所領を持つ家臣やその領民は困窮したとみられ、その後の領国経営に暗い影を落とすことになる。

文明6年(1474年)、43歳で死去。嫡男の忠昌が後を継いだが、立久の生前に薩州家の島津国久を養嗣子に迎えて実子である忠昌を法城山龍雲寺に入れて僧にする予定であったとする記録(伊地知季安『御当家始書』)もあり、この際の混乱がその後の家中の内紛の一因になったと考えられる。墓所は東市来の法城山龍雲寺跡、福昌寺跡。墓所は昭和3年(1928年)に改葬され、現在は墓の祠の跡が残っている。

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