1893年、北辰一刀流の開祖である千葉周作の曾孫、千葉秀三郎として生まれる[1]。
父・千葉周之介之胤(玄武館第5代宗家)は東京・築地の立教学校(立教大学の前身校の一つ)の教員として撃剣及び剣道の師範を務めた[2][3]。
兄が旧制立教中学校で学んだことから、1909年に同じく旧制立教中学校に入学[2]。
1913年、立教大学文科(現・文学部)に入学[2]。1917年、同卒業[1]。在学中は立教学院ミッションに所属したほか、その機関紙である『築地の園』の編集に注力するなど、学内でキリスト教の伝道活動に熱心に取り組む[1]。その間に、帆足家の養子となり、帆足秀三郎となった[1]。
その後、聖公会神学院で修学した後、1919年、旧制立教中学校の英語教員に就き、宗教主事や舎監を務める[2]。
1936年5月、旧制立教中学校校長に就任[2][4]。
1944年、立教大学学監に就任し、大学の運営にも関わるようになる[1]。
戦時中、立教大学は敵国の米国人が設立した大学として軍部から弾圧されたが、終戦となり大学の再建が模索される中で、大学総長であった三辺金蔵や立教中学校校長であった帆足秀三郎など幹部11名が、戦時中にキリスト教主義を一掃したとしてGHQにより追放処分となった[1][5][6]。
1952年、追放解除となり、立教学院に復職し、立教中学校講師や立教学院評議員、立教学院理事を歴任する[1]。