千葉周之介
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玄武館第3代宗家千葉栄次郎(千葉周作の次男)の長男として生まれる[1][3]。第3代の栄次郎が若くして亡くなり、玄武館第4代宗家は千葉道三郎(千葉周作の三男)が継いだ。
周之介(之胤)は父・栄次郎の弟子であった下江秀太郎に師事する[1]。
1871年(明治4年)、明治政府による廃藩置県が行われると、武士を中心とする階級制度が廃止され、約200万人の武士が失業することとなったが、この武士階級の廃止以降、武術への関心も低下し、多くの門人が流派から離れ始めた。また、翌1872年(明治5年)には、玄武館第4代宗家の道三郎が後継者を任命することなく亡くなり、さらに神田於玉ヶ池の玄武館の建物も劣化し建て替えを行わずに閉鎖することとなった[1]。
こうした武術が荒廃していき、玄武館も閉鎖した状況の中で、再びの北辰一刀流の再興を図ろうと、1873年(明治6年)に、周之介(之胤)は、同じ北辰一刀流の千葉道場第3代宗家の千葉東一郎(千葉重太郎〈千葉道場第2代宗家〉の養子)と千葉さな子(千葉定吉の二女、千葉重太郎の妹)と共に、千葉道場において千葉撃剣会を結成する[1]。
千葉撃剣会では撃剣興行を開催するが、竹刀や木刀を持って腕を試したい様々な流派の剣士にとり最高の環境となっていく。当初は選ばれた観客の前でのみ試合が行われたものの、その後、誰でも観られるようにした。これを機に、千葉道場は評判を取り戻し、再び門下生を集めることに成功する[1]。
しかし、その後、時代の変遷には逆らえず、武術に関心のある者は減っていき、教えを受け継ぐものもいなくなり、多くの流派が途絶えて、千葉道場も厳しい状況に置かれていった[1]。
西南戦争が起こった2年後の1879年(明治12年)には、千葉周作の弟で千葉道場を開いた千葉定吉が82歳で亡くなり、同年、家を継がずに実兄が逝去した千葉東一郎(千葉道場第3代宗家)は、妻を連れて実家に戻ることとなり千葉家を去る。そのため、千葉重太郎(千葉道場第2代宗家)のもう一人の養子の千葉束が千葉道場を継ぎ千葉道場第4代宗家となった[1]。
金銭的にも道場を支えていくのが厳しくなる中で、束は桶町から四ツ谷の小さな施設内に、千葉道場を移転せざるを得なくなる。一方、東京では本格的な都市計画が策定されていく中で、江戸時代の古い建物の解体が迫られるが、1872年(明治5年)に閉鎖されていた神田於玉ヶ池の玄武館も計画の対象となり、1880年(明治13年)に道路建設の工事に伴って玄武館は取り壊された[1]。
また、1881年(明治14年)には、束は養父である重太郎と共に翌年京都に設立される府立体育演武場で撃剣及び剣術指南役として仕官することになり、千葉道場での稽古を中止し、北辰一刀流の宗家流派が途絶える状況となった[1]。
そこで、周之介(之胤)は、東京で玄武館を再建するため支援者を集めに奮闘し、翌々年の1883年(明治16年)に北辰一刀流の剣士であった山岡鉄舟と井上八郎(山岡の師匠)から金銭的かつ技術的な支援を受けて、玄武館を神田錦町に再興することに成功する[1]。山岡、井上とも以前に北辰一刀流の免許皆伝を伝授され、幕末という激動の時代を駆け抜けた剣客であった[1]。
1885年(明治18年)に、千葉道場第2代宗家を務めた重太郎が61歳で亡くなるが、同じ頃、束が京都から戻り、千葉道場第4代宗家として、再び東京で北辰一刀流を教授することになる[1]。
但し、なんとか再興した当時も、武術は時代遅れという批判も受けて、古流武術で門下生を獲得して生活費を賄うのは困難な状況を変わらなかった。こうした中で、流派を次世代に受け継ぐためには、軍隊や警察への指導や、撃剣試合に出ることしかない状況であった。しかし、武術家の多くは武術を必要としない職に鞍替えしたため、途絶えた流派が多くあった。
1886年(明治19年)に、周之介(之胤)は、門下生の前での演説で「剣術への関心がますます薄れていくこの時代であっても、玄武館を維持するため稽古に励むように」と語った。しかし、門人の減少を食い止めるには至らず、1887年(明治20年)から1897年(明治30年)の間に、玄武館は閉鎖されることとなった。これは、千葉周作が1822年に開いた北辰一刀流の一系統の終焉であった[1]。
その間、警視庁撃剣世話掛及び水上署の剣道師範をしていた周之介(之胤)は、1891年・92年頃(明治24年・25年頃)、東京・築地の立教学校(立教大学の前身校の一つ)に招聘され剣道の師範となる。当時の学生の大部分はその指導を喜んで受けており、その後旧制立教中学校となった後、東京都下において有数の剣道部として活躍することとなった[4]。
1894年(明治27年)には、立教学校(立教大学の前身校の一つ)の前身校の教授に就任し、撃剣を教えている。当時の立教学校は、外国人教員にはテオドシウス・ティングやジェームズ・ガーディナーが務め、日本人教員として、周之介(之胤)のほかに、久米邦武(史学)、松本亦太郎(心理学)、松本文三郎(論理学)、河島敬蔵(英書訳読)らが教えた[2]。
千葉束も1896年(明治29年)から1897年(明治30年)の間に東京の千葉道場を閉鎖し、台湾に移り、台湾基隆北門に「北辰館」という名の道場を開いて北辰一刀流を教授し始める。1895年(明治28年)から日本の植民地になった台湾では、日本の伝統文化を指導できる者の移住を政府が促進していたことが、台湾移住の背景にあった。数年後には、束は満州へ赴任することが決まり、北辰館は閉鎖された[1]。
1899年(明治32年)より、周之介(之胤)は、韓国釜山で日本政府の仕事に就き、1911年(明治44年)に亡くなった[1]。