平公雅
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父・良兼らが従兄弟の平将門と度々争い、勝利して将門の妻子を捕らえ上総に拉致すると、弟・公連と共にこれを将門の許に逃がしたとされる[2]。
承平7年(937年)に将門の訴状により朝廷から下された追捕の官符で父らと共に対象になっているため、この頃は父と共に将門と争っていたと見られるが、天慶2年(939年)6月に父が病死すると、将門と対立する平貞盛らとは距離を置いて中立的立場になったといわれている。12月に将門が「新皇」を自称し叛乱をおこすと、翌天慶3年(940年)1月14日、将門の牽制のために任命された8人(坂東8ヶ国)の東国掾の一人となり、将門の乱の鎮圧後に安房守となった[3]。
天慶5年(942年)藤原秀郷の後任として武蔵守となり、将門の乱によって荒廃していた武蔵国・金龍山浅草寺を再建したことで知られる。また同年に五重塔を創建。同塔には江戸時代享保年間(徳川吉宗公の御代)に発足した町火消「う組」の位牌も安置されていると言う。
天慶8年(945年)の3月18日に公雅の枕元に観音様が立ち「この沖合に生ずる青、赤、黒三通りの海草を食すれば、無病開運、来世は必ず仏果を得べし。」 と告げたので、教えの通りにそれらの海草を集めて食してみたところ、非常に美味しくて体にも良いことから「観音様の法(のり、教え)だから『浅草のり』だ」と評判になったという伝説も知られている。