坂東平氏 From Wikipedia, the free encyclopedia 桓武平氏 > 坂東平氏 氏姓 平朝臣始祖 桓武天皇(第50代)氏祖 高望王(平高望)種別 皇別平氏(坂東平氏)氏姓 平朝臣始祖 桓武天皇(第50代)氏祖 高望王(平高望)種別 皇別本貫 上総国武蔵国 ほか著名な人物 平国香平将門平良文後裔 伊勢平氏常陸平氏房総平氏秩父平氏中村党三浦党鎌倉党など凡例 / Category:氏 坂東平氏(ばんどうへいし)は、桓武平氏のうち葛原親王の三男高見王の子平高望が上総介に任じられ坂東に下向し土着したことに始まる一族の呼称。武家平氏と呼ばれるものはこの流れに当たる。 寛平元年5月13日(889年6月14日)、宇多天皇の勅命により平姓を賜与され臣籍降下し上総介に任じられた平高望は、遥任国司が多い当時ではあったが子の国香・良兼・良将とともに任地に下向した。彼らは、任期が過ぎても帰京せず、元皇族の血すじを武器に婚姻関係によって在地勢力との連携を深め、上総国・下総国・常陸国の未墾地[注釈 1]を開発、私営田を経営し勢力を拡大した。そして、自らの権利を守るため武士団を形成、その後各地に広がる高望王流桓武平氏の基盤を固めた[1][2]。 国香の長男に貞盛がおり、 貞盛の四男維衡の流れが伊勢平氏である。 貞盛の弟繁盛の流れが常陸平氏である。 貞盛の次男維将の孫である平直方の子孫を北条氏と熊谷氏は称している。 良兼の長男に公雅がおり、公雅の三男に致頼がいる。 良将の三男に将門がいる。 その他、高望には良孫、良広、良持、良茂、良正などの庶子があったとされる。 高望の側室の子とされる良文は、父や兄達とは別に相模国鎌倉郡村岡に下って村岡五郎を称し、坂東八平氏と呼ばれる諸族の祖となった[注釈 2]。坂東八平氏からは秩父平氏、房総平氏、相模平氏(中村党、三浦党、鎌倉党)などが出て坂東武者の供給源となった[5]。 坂東平氏系譜 坂東平氏系図 高望王(平高望) 国香 良兼 良将 良文 良茂 貞盛 繁盛(常陸平氏) 公雅 将門 忠頼 忠光 良正 維将 維衡(伊勢平氏) 忠常(房総平氏) 将恒(秩父平氏) 頼尊 忠通 維時 常遠 三浦為通(三浦党) 鎌倉章名(鎌倉党) 直方 常宗 維方 阿多見聖範 中村宗平(中村党) 盛方 北条時家(北条氏) 熊谷直貞(熊谷氏) ※系図は諸説ある ※北条氏と熊谷氏は、平直方の子孫を称している。 ※『源平闘諍録』では、北条氏を平維衡の子孫としている。 ※『千葉大系図』では、平常遠を平忠常の子としている。 ※『満昌寺差上系図』では、三浦氏の祖を高望の子・良兼としている。 ※『尊卑分脈』では、三浦氏・鎌倉氏・長尾氏・大庭氏・梶原氏・土肥氏など相模平氏の祖を良文ではなく、良茂の子・良正、あるいは良兼の子・公雅としている。 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ↑ この付近は、玉浦(現・九十九里平野)や香取海が陸地化した箇所であり、当時は湖沼群が残され新田開発に適した多くの未墾地があった。 ↑ 良文の場合、上総介に任じられた高望とともに坂東に下向して勢力を拡大したわけでは無いが、父を同じくするとされ、他の諸流がその後衰退しあるいは活動拠点を坂東以外に移したこともあって、坂東平氏を称する氏族のほとんどは良文流の坂東八平氏である。ただし、実際には一定の信憑性を評価されている『将門記』には良文の名はなく、坂東八平氏の初期系図には混乱が見られることから、平高望とは無縁の氏族が後世になって仮冒したものと考えられている[3][4]。 出典 ↑ 桓武平氏 コトバンク ↑ さらに詳しく 桓武平氏の台頭 農林水産省関東農政局 ↑ 太田亮 『姓氏家系大辞典』第二巻、角川書店、1963年、3584-3585頁 ↑ 桓武平氏概観 古樹紀之房間 ↑ 坂東平氏系図 ウェブサイト「いざ鎌倉」 関連項目 軍事貴族 荘園 (日本) この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。表示編集 Related Articles