平山増之助
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1861年9月5日((旧暦)文久元年8月1日)、下総多古藩(現千葉県香取郡多古町)藩医平山玄益の次男として生まれ[2]、1872年(明治5年)東京・横浜に遊学し東京大学予備門を経て1882年(明治15年)東京大学医学部製薬学科を卒業して製薬士の称号を得た[3]。
直後に日本陸軍剤官副となり熊本鎮台病院に勤務し[2]、1888年(明治21年)1月熊本薬学専門学校初代校長となる(ドイツ留学により退任)。1889年(明治22年)7月にドイツに留学した[4]。近代薬学を学んだ陸軍薬剤官として1891年(明治24年)12月帰国後すぐに東京衛戍病院付き陸軍軍医学校教官を命じられ、日清戦争時には大本営付きとして戦地衛生材料補給計画を立案した[2]。1897年(明治30年)2月には軍医学校教官兼務のまま薬剤監唯一の陸軍省医務局課員となり[5]、同年5月には薬剤監初の衛生会議議員に命じられ[6]、1900年(明治33年)より始まった『第三改正日本薬局方』日本薬局方調査会においては委員となり[2]、終了間際の1906年(明治39年)9月には主査委員となった[7]。
1902年(明治35年)7月には陸軍内の衛生材料管理の責任である陸軍衛生材料廠長心得(代理)に起用され[8]、日露戦争時において衛生材料廠長として戦線全体に円滑な衛生材料補給を実施し、それらの功績から1906年(明治39年)4月陸軍一等薬剤正(大佐相当)に昇任した[2]。1907年(明治40年)11月20日、薬学研究における成果も認められ薬学博士学位を授与された[9]。翌年には薬剤師試験における試験委員に任じられた[10]。
1909年(明治42年)11月、病から陸軍を辞した後、1910年(明治43年)9月富山県立薬学専門学校校長に就任し、病の進行から1914年(大正3年)に退官し帰京、同年6月29日死去した[2]。陸軍薬局方ばかりでなく日本薬局方の改正に深く関与し、晩年は日本薬学会編纂委員・同会議員、後に会長として日本の薬学発展に寄与した。