平維扶
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延喜21年(921年)10月17日、空海が弘法大師と諡された際、その勅書を金剛峯寺に運んだ[5]。
延長6年(928年)と7年(929年)の10月の旬政では、左近衛少将として参朝しており、7年の際には少納言がいなかったため、維扶が召名をした[6]。
承平6年(936年)と天慶元年(938年)の1月4日、藤原師輔の大臣家大饗で請客使を務めた[7]。
承平6年(936年)12月16日、荷前使を病を称し懈怠した[7][8]。
天慶元年(938年)12月10日、五位以上の殿上の侍臣が、誰も宿直しなかった。このため、故障もなく参入しなかった惟扶と小野好古が勘責された[9]。
天慶2年(939年)、陸奥守となり、8月17日に白河家で藤原忠平から餞された[10][11]。10月、下向中に下野国府で平貞盛と合流し、共に陸奥へ向かった。しかし、貞盛は、平将門に追われたため、途中で雲隠れした(平将門の乱)[1]。
同9年(946年)12月26日、荷前で田原使を務めた。この際、天皇御前で幣物を舁き立てる場所を間違えてやり直した[7]。
官歴
- 延喜21年(921年)10月17日:見少納言[5]
- 延長5年(927年)2月10日:大原野祭使、見右馬允[12]
- 延長6年(928年)6月9日?:左近衛少将、元少納言[13]
- 承平元年(931年)3月30日:見内豎官人代[14]
- 承平2年(932年)11月4日:装束司[14]
- 承平4年(934年)4月16日:見伊予守[12]
- 承平6年(936年)~天慶元年(938年):見左馬頭[15]
- 承平6年(936年)12月16日:荷前使[7]
- 天慶元年(938年)1月4日:見四位[7]
- 天慶2年(939年)8月17日:見陸奥守[10]
- 天慶9年(946年)12月26日:荷前使(田原使)[7]
- 天暦2年(948年)2月29日:卒去[5]