広橋兼頼 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 鎌倉時代中期生誕 延応元年(1239年)[1]死没 弘安3年2月7日(1280年3月9日)別名 勘解由小路兼頼 凡例広橋兼頼時代 鎌倉時代中期生誕 延応元年(1239年)[1]死没 弘安3年2月7日(1280年3月9日)別名 勘解由小路兼頼官位 正四位下、右大弁、蔵人頭主君 四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇→後宇多天皇氏族 広橋家父母 父:広橋経光、母:藤原親実の娘兄弟 兼頼、兼仲、経子テンプレートを表示 広橋 兼頼(ひろはし かねより)は、鎌倉時代中期の公家。官位は正四位下・右大弁、蔵人頭。 延応元年(1239年)、民部卿・広橋経光の長男として誕生。母は藤原親実の娘。 公卿に昇る前に死去したため、同母弟の兼仲が家を継ぐことになった。なお、兼仲の昇進が遅かったことを本郷和人は指摘しているが[2]、同母兄の兼頼が順当な昇進を続け公卿への昇進が目前となっていたからである。 官歴 以下、『検非違使補任別巻』の内容に従って記述する。 延応元年(1239年)、誕生。 正元元年(1259年)8月11日、中宮権大進。 文応元年(1260年)9月25日、正五位下に昇叙。 文永3年(1266年)12月15日、右衛門権佐、検非違使宣旨。 文永6年(1269年)3月7日、蔵人に補される。 文永7年(1270年)1月21日、右少弁に任ぜられる。同年2月1日、蔵人と佐を止める。 文永8年(1271年)2月17日、正五位上に昇叙。同年11月29日、左少弁に転任。 文永10年(1273年)3月4日、氏院別当となる。同年4月、右大将を兼任したばかりの権中納言近衛家基の家司となる[3]。 文永11年(1274年)4月5日、右中弁に転任し、従四位下に昇叙。同年9月10日、左中弁に転任。 文永12年(1275年)2月1日、修理左宮城使となる。 建治元年(1275年)12月26日、右大弁に転任。 建治2年(1276年)1月5日、従四位上に昇叙。同月23日、遠江権守を兼ねる。 建治3年(1277年)9月13日、蔵人頭に補される。 弘安元年(1278年)4月17日、正四位下に昇叙。弘安3年(1280年)2月7日、卒去[4]。 脚注 [脚注の使い方] ↑ 『検非違使補任別巻』、83頁に基づく。 ↑ 本郷和人、『中世朝廷訴訟の研究』、「廷臣小伝」。 ↑ 近衛家基は同年5月には権大納言へと昇進する。 ↑ 蔵人頭右大弁に在任のまま死去した。 参考文献 『検非違使補任別巻』、宮崎康充編、続群書類従完成会。 『尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「広橋兼頼」、および「広橋経光」の項。 『公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編)※ 文永10年(1274年)に近衛家基が右近衛大将を兼任した時以降の記事。 本郷和人、『中世朝廷訴訟の研究』、東京大学出版会 表話編歴広橋家第2代当主 広橋頼資 広橋兼頼 広橋兼仲 広橋光業 広橋兼綱 広橋仲光 広橋兼宣 広橋兼郷 広橋綱光 広橋兼顕 広橋守光 広橋兼秀 広橋国光 広橋兼勝 広橋総光 広橋兼賢 広橋綏光 広橋兼茂 広橋貞光 広橋兼廉 広橋兼頼 広橋兼胤 広橋伊光 広橋胤定 広橋光成 広橋胤保 広橋賢光 広橋真光 Related Articles