広橋国光

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改名 国光→尊寂(法名)
 
広橋国光
時代 戦国時代
生誕 大永6年5月19日1526年6月28日
死没 永禄11年11月12日1568年11月30日
改名 国光→尊寂(法名)
諡号 後引接院
官位 正二位権大納言、贈内大臣
主君 後奈良天皇正親町天皇
氏族 広橋家
父母 父:広橋兼秀、母:勧修寺政顕の娘
兄弟 国光庭田重保室、保子国子
高倉永家の娘、烏丸光康の娘
輝資兼勝日禎
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広橋 国光(ひろはし くにみつ)は、戦国時代公家。号は後引接院。法名は尊寂。官位は正二位権大納言正親町天皇松永久秀に仕えた。

広橋氏鎌倉時代の貴族であった日野兼光の四男広橋頼資によって創立された。室町時代を通して、広橋氏は天皇家と縁戚関係を結ぶ一方、将軍昵近公家衆に組み込まれ、公武双方と強い関係を有していた。国光はその第13代当主で、武家朝廷をつなぐ役職の武家伝奏に就任した[1]。また、日記として『国光卿記』を残している[2]

大永6年(1526年)、広橋家第12代当主で内大臣であった広橋兼秀の子として誕生した[3]

天文3年(1534年)、従五位上に叙され、元服した[3]

天文13年(1544年)、当麻寺を守護するようにと命じる西南院得業宛の後奈良天皇の綸旨を国光が調えた[3]

国光は順調に出世したようで、天文16年(1547年)3月23日、には左中弁に、天文17年(1548年)3月23日、には左大弁に、天文18年(1549年)3月25日、には権中納言に、天文23年(1554年)4月9日、には権大納言に任じられた[3]

弘治元年(1555年)、長男の日野輝資が、永禄元年(1558年)、次男の広橋兼勝が誕生した[3]

弘治2年(1556年)、尼子晴久の居城であった月山富田城で行われた千部法華経読踊で安来清水寺が後奈良天皇の綸旨を根拠に鰐淵寺を差し置いて左座に座ろうとして起こった論争で、最終的に、後奈良天皇の女房奉書と国光の書状が発給され、鰐淵寺が左座と決まった[1]

弘治3年(1557年)から永禄3年(1560年)の間に後奈良天皇の後宮女房であった妹の広橋保子三好長慶の家臣であった松永久秀に側室として嫁ぎ、国光は久秀の義兄となった[1]

弘治4年(1558年)2月28日、正親町天皇践祚を理由に弘治から永禄に改元した[1]。その後、同年5月7日、足利義輝が朝廷に太刀と500疋を改元御礼として国光や関白近衛前久を通して進上した[1]。この時の銘のない太刀や1000疋以下の進上は前代未聞であり、万里小路惟房は義輝が朽木に没落しているためかと嘆き、あまりの遅延ぶりに無礼だと怒っている[1]。さらに、義輝には正式に改元を伝えられず、永禄でなく弘治を使い続けた。惟房はこのことの原因は国光の怠惰であると考えていた[1]

永禄2年(1559年)、国光は正二位極位極官に昇った[3]

永禄3年(1560年)、正月、朝廷は儀礼の差配や費用の調達を国光を通して久秀に依頼した[1]。翌永禄4年(1561年)8月、禁裏六丁堀の掘削と禁裏御料所への年貢の催促を国光を通して久秀に依頼した[1]

永禄7年(1564年)3月16日、久秀は国光とともに朝廷にこの年が甲子であることを理由に改元を申し入れるも、却下された。改元執奏は本来将軍が行うことであり、朝廷がこの執奏に応じた場合、三好氏が将軍家並と認めることとなり、将軍家と三好氏の対立が加速すると考え、却下したと考えられる[1]。同年6月、三好義継が長慶から家督を相続した御礼のため、兵4000を引き連れ上洛して足利義輝に謁見した際、松永久通三好長逸清原枝賢とともに国光も同行している[1]。同年7月、三好家当主の長慶が病死した。このころから、久秀は国光を通して、同年5月1日、8月29日、11月3日、翌永禄8年2月2日と朝廷に供御物を献上し、朝廷に急接近した[1]

永禄8年(1565年)5月、三好義継は二条御所を攻め、将軍義輝やその側近を殺害した(永禄の変)。同年10月26日、朝廷は朝廷に預けられていた将軍家代々の家宝である「御小袖の唐ひつぎ」を久秀と国光の要請で引き渡している[1]。同年、国光は久秀の客分となり、多聞山城に移住した[1]

永禄9年(1566年)8月24日、国光は三好家内での三好三人衆と久秀の争いで、久秀に味方していたが、三好三人衆の一人であった長逸が国光の家臣速水武益や久秀家臣の楠木正虎の屋敷を接収した[1]

永禄11年(1568年)10月14日に上洛[4]。11月12日、国光は病死した[1]

元和3年(1617年)11月12日、内大臣を贈位された[3]

系譜

脚注

関連項目

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