北海道川上郡弟子屈村(現在の弟子屈町)屈斜路コタンで誕生した[1]。アイヌの生まれながら、自身はすでにアイヌ語やアイヌの風習を禁じられていたが、親戚や周囲の人々のアイヌ語やサコロベ(英雄叙事詩)などのアイヌ文化に囲まれて育った[5]。
32歳のとき、仕事で阿寒湖アイヌコタンに移り、アイヌ古式舞踊の唄や踊りを見て、子供の頃、屈斜路コタンの儀式で身ぶり手ぶりで踊った記憶が甦ったことで、古式舞踊やアイヌ文化の伝承への取り組みを始めた[6]。1967年に阿寒アイヌ民族文化保存会が結成されると、当初から中心的な役割をはたし[2]、伝統舞踊や民族楽器ムックリの演奏を受け継いだ[1]。1976年には同会の「ユーカラ座」の一員として、パリでの公演に参加した[2]。
1991年に、世界各国の演奏家が競演する国際口琴大会の第2回大会がヤクート・サハ共和国で開催された際に、日本から初参加[7][8]。このときは、大会で親交をもったサハの演奏家が、コタンまでシギ子に会いに来るほどだった[9]。シギ子自身も各国の奏者に刺激されたことで、帰国後に「阿寒口琴の会」を設立した[7]。その後も国際口琴大会に計3回出場し、民族の音楽表現を国内外に知らしめた[1]。
2001年、初のエッセイ集『わたしのコタン』を自費出版した。約30年前に阿寒湖畔に移住して以来、幼少期の思い出やアイヌ民族の歌を就寝前に書きためており、孫たちだけに見せるつもりだったところが、偶然読んだ友人に「広く世に問わないのは惜しい」と出版を勧められたものである[10]。アイヌ文化研究で知られる民俗学者の藤村久和は「アイヌ民族自身が自らの歴史を語っており、個人史を越えた本当のアイヌ史」と称賛した[11]。
日本国内外におけるアイヌ文化の振興及び普及や啓発、古式舞踊の伝承や保存活動を評価されたことで、2004年にアイヌ民族文化財団によるアイヌ文化奨励賞を[2]、2011年にはアイヌ文化賞を受賞した[4]。
2024年4月、満92歳で死去した[3]。翌2025年に日本国内で初の開催となった第10回国際口琴大会で実行委員会事務局長を務めた郷右近富貴子は、自身もムックリの奏者であり、十代の頃に弟子シギ子の音色に感動して本格的にムックリを始めたと語っている[9]。