阿寒湖アイヌコタン
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アイヌとは「人間」もしくは民族としての「アイヌ」を意味し、コタンは、「集落」の意味である。
阿寒湖畔の温泉街に隣接する位置にあり、坂を挟んで左右に、おもに木彫りやアイヌ刺繍の作品などのみやげ品を販売する民芸品店が立ち並んでいる。その多くは、アイヌを出自に持つ住民によって経営される民芸品店であり、店舗兼住居となっている建築物も含まれる。
また、劇場ではアイヌ舞踊が毎日披露され、アイヌ文化の体験プログラムも用意されており、観光客がさまざまな形でアイヌ文化に触れることができる。
阿寒湖アイヌコタンは、白老のウポポイのように入場料を払って入場するような施設ではなく、店舗の立ち並ぶ商店街であり、人の暮らす集落である。訪問客は自由に出入りできる。
経緯
もともと旧阿寒町[注釈 1]において、シタカラ(舌辛)・フブシナイ(布伏内)・アクベツ(飽別)などに、アイヌの暮らす集落があり、阿寒湖畔にはアイヌが定住するところの集落は存在しなかったとされている。アイヌが猟や仕事の関係で一時的に滞在する場所であった。
明治以降、阿寒湖が温泉地として有名になり、多くの観光客が訪れるようになった。またマリモが1921年に特別天然記念物に指定されたこともこのことに拍車をかけた。観光地として人気が高まりつつあった北海道において、アイヌ文化が一つの見ものとして注目されつつあった。そういったことで、各地より少しずつアイヌが阿寒湖に来て観光客相手に木彫りのみやげを販売するようになった。
当初は、特にアイヌの集住する地区はなく、湖畔の温泉街の軒先などで商品を販売しながら一時滞在していた。また、冬期間は閑散期であり観光客も少なく、春~秋のシーズンは阿寒湖で商売に従事し、冬になるとそれぞれの居住地に戻る人が多かった。
その中で、阿寒湖は多くの観光客が訪れ、観光業もさらに盛んになることが期待され、その中でアイヌ文化にちなんだみやげ品も売り上げが大きくなることが予想された。
各地のアイヌは明治以降の植民地政策により、貧困による生活苦や就職差別もあった。そういったことで阿寒湖にアイヌが集まり観光業に従事して生活を営み、生活の安定をはかる案が浮上した。そこでアイヌと、湖畔の土地を所有する前田一歩園との間に交渉が行われ、土地を無償提供し、湖畔の一角にアイヌが集まって集落を形成し、観光業に従事することとなり、1959年より多くのアイヌが移り住むことになった[1]。
その結果、アイヌ文化伝承者や芸術家たちが各地から移り住み、店舗を構え、ここを生活拠点にし、観光業で生計を立てながら文化伝承、創作活動に取り組んだ[注釈 2]。
アイヌシアター「イコㇿ」があり[2]、そこでアイヌ古式舞踊やアイヌ文化を題材にした歌劇[注釈 3]が毎日上演されている。またかつてのヨシぶきの住居を復元した家屋内に民具や祭具を展示したアイヌ生活記念館(ポンチセ[3])も設置されている。
関連する人物
- 山本多助 アイヌ文化伝承者。釧路市出身。アイヌ文化伝承活動において指導者、儀式の祭司として活躍した。数々の著作を発表した。
- 日川キヨ[5] アイヌ文化伝承者。釧路市出身。夫の日川善次郎とともにアイヌ文化伝承者として活躍した。歌謡の名手として知られた。
- 日川キク子[6] アイヌ文化伝承者。阿寒出身。日川善次郎・キヨ夫妻の娘であり、アイヌ歌謡の名手として知られる。
- 小鳥サワ アイヌ文化伝承者。阿寒湖畔で生まれ育った。
- 砂沢ビッキ 木彫家。旭川市出身。青年時代、阿寒湖を拠点に創作活動に取り組んだ。
- 藤戸竹喜[7] 木彫家。美幌町出身。アトリエを持ち、創作活動に取り組んだ。独自の精緻な作品で知られる。
- 弟子シギ子[8] アイヌ文化伝承者。弟子屈町出身。アイヌ歌謡の名手、口琴奏者として活躍した。
- 秋辺今吉[9] アイヌ文化伝承者。阿寒出身。カムイノミの祭司として活躍した。
- アト゚イ(豊岡征則) アイヌ文化伝承者。白糠町出身。阿寒湖と弟子屈町屈斜路湖畔を拠点に民芸店を経営しつつ、アイヌ詞曲舞踊団モシリを結成し、各地で演奏活動に取り組んでいる。
- 前田光子 前田一歩園財団園主。栃木県出身。アイヌコタンの用地を無償提供するなどして、アイヌコタンの建設・発展に協力し、住民とも信頼関係を築いた。
- 瀧口政満 木彫家。満州出身。阿寒湖に移り住み、民芸店を経営しながら独自の作品を数多く制作し、高く評価された。
