張仲方
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貞元年間、進士に及第し、博学宏辞科に登第し、集賢院校理を初任とした。母が死去したため、仲方は辞職して喪に服した。喪が明けると、仲方は秘書省正字に任じられ、咸陽県尉に転じた。邠寧節度従事として出向し、入朝して侍御史・倉部員外郎を歴任した[3][4]。
元和3年(808年)、呂温と羊士諤が宰相の李吉甫を弾劾しようとして、かえって左遷された。仲方は呂温の門生として罪に連座して、金州刺史として出された。元和9年(814年)、李吉甫が死去すると、仲方は入朝して度支郎中となった。元和12年(817年)、太常寺卿が李吉甫の諡号を「恭懿」と定めようとし、太常寺博士の尉遅汾が「敬憲」とするよう求めると、仲方は李吉甫を批判し、呉元済の乱を平定した後に議論するよう意見した。このため憲宗の怒りを買い、遂州司馬に左遷された。さらに復州司馬に移された。河中少尹に転じた。長慶3年(823年)、鄭州刺史に任じられた[5][6]。
長慶4年(824年)、敬宗が即位し、李程が宰相となると、仲方は長安に召還されて右諫議大夫となった。宝暦元年(825年)、敬宗が王播に命じて競渡船30隻を造らせると、王播は転運の費用半年分を流用して造船した。仲方は厳しくこれを諫めた。また敬宗が華清宮に行幸しようとすると、仲方は軽々しく行くべきでないと諫めた。敬宗は諫言を聞き入れなかったが、仲方を慰労した[7][8]。
大和元年(827年)、仲方は福州刺史・福建都団練観察等使として出向し、御史中丞を兼ねた。大和3年(829年)、入朝して太子賓客となった。大和5年(831年)4月、右散騎常侍に転じた。大和7年(833年)、李徳裕が宰相となると、仲方は太子賓客・分司東都となった。大和8年(834年)、李徳裕が宰相から退任すると、仲方は李宗閔に召し出されて右散騎常侍となった[7][8]。
大和9年(835年)11月、甘露の変が起こり、李訓らが敗死すると、仲方は京兆尹に任じられた。1月あまりして、鄭覃が宰相となると、仲方は華州刺史として出向した。開成元年(836年)5月、入朝して秘書監となった。銀青光禄大夫・上柱国の位を加えられ、曲江県開国伯に封じられた。開成2年(837年)4月、死去した。享年は72。礼部尚書の位を追贈された。諡は成といった。著書に文集30巻があった[9][8]。