李宗閔

From Wikipedia, the free encyclopedia

李 宗閔(り そうびん、生年不詳 - 846年)は、宗室官僚政治家牛李の党争において牛党についたことで知られる。は損之[1][2]

貞元21年(805年)、進士に及第した。元和4年(809年)、さらに賢良方正科に登第した。牛僧孺とともに当時の政治の弊害を批判したため、宰相の李吉甫に憎まれ、洛陽県尉に任じられた。長いあいだ不遇をかこち、節度使の属官を歴任した。元和7年(812年)、入朝して監察御史となり、礼部員外郎に累進した[3][2]

元和12年(817年)、宰相の裴度が淮西の呉元済を討つにあたって、宗閔は召し出されて淮西観察判官となった。呉元済の乱が鎮圧されると、宗閔は駕部郎中に転じ、本官のまま知制誥となった。元和15年(820年)、穆宗が即位すると、宗閔は中書舎人に任じられた[4][2]

長慶元年(821年)、娘婿の蘇巣が科挙に落第すると、宗閔は請託を受けた罪で剣州刺史に左遷された。ほどなく入朝して中書舎人となった。長慶3年(823年)冬、検校礼部侍郎となった。長慶4年(824年)、検校兵部侍郎に転じた。宝暦元年(825年)、正式に兵部侍郎に任じられた。父が死去したため、宗閔は辞職して喪に服した。大和2年(828年)、吏部侍郎として起用された。大和3年(829年)8月、本官のまま同中書門下平章事(宰相)となった[4][2]

ときに裴度が李徳裕を推薦して任用されることになり、李徳裕は浙西から入朝しようとした。宗閔は宦官の助けを借りてこれを阻み、李徳裕を再び外任に出させた。ほどなく宗閔は牛僧孺を召し出してともに宰相となり、協力して李徳裕の一党をみな追放した。中書侍郎・集賢院大学士に転じた。大和7年(833年)、李徳裕が宰相となった。6月、宗閔は宰相を退任し、検校礼部尚書・同平章事・興元尹・山南西道節度使として出された[4][5]

大和8年(834年)、宗閔は長安に召還されて、中書侍郎・同平章事となり、宰相に返り咲いた。襄武県侯に進封された。大和9年(835年)6月、京兆尹楊虞卿が罪を得ると、宗閔は口を極めて弁護した。文宗の怒りを買い、明州刺史に左遷された。ほどなくさらに処州長史に降格された。7月、さらに潮州司戸参軍に流された。李訓鄭注が政権を壟断し、宗閔や李徳裕の仲間は地方に追放された[6][7]

開成元年(836年)、宗閔は衢州司馬に移された。開成3年(838年)、楊嗣復が宰相となると、宗閔と仲が良かったことから、宗閔を復権させようとしたが、鄭覃が宗閔を李林甫にたとえて反対したため阻まれた。宗閔は杭州刺史に転じた。開成4年(839年)冬、太子賓客となり、分司東都をつとめた。鄭覃と陳夷行が宰相を退任すると、楊嗣復は再び宗閔を宰相に任用しようとしたが、まもなく文宗が死去したため、沙汰止みとなった[8][9]

会昌元年(841年)、李徳裕が政権を掌握すると、楊嗣復・李珏らは嶺南に逃れた。会昌3年(843年)、劉稹潞州に拠って反乱を起こすと、李徳裕は宗閔がもともと劉従諫と関係が深く、洛陽に置くのはよろしくないとして、宗閔は封州刺史として出された。会昌6年(846年)、さらに旧事が暴かれ、郴州司馬に左遷され、配所で死去した[10][11]

家族

  • 玄祖父:李元懿(鄭王)
  • 高祖父:李璥(嗣鄭王、鄂州刺史)
  • 曾祖父:李察言(鴻臚寺卿)
  • 祖父:李自仙(楚州別駕)
  • 伯父:李夷簡
  • 父:李䎖(宗正寺卿、華州刺史・潼関防禦・鎮国軍使)[1]
  • 兄:李宗冉(右金吾衛兵曹参軍)
  • 子:李琨(大中年間の進士)
  • 子:李瓚(中書舎人・翰林学士、桂管観察使)[12][13]

脚注

伝記資料

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI