張允 (五代)
From Wikipedia, the free encyclopedia
張徴の子として生まれた。幼くして儒学を習い、鎮州に仕えて参軍となった。天祐18年(921年)、張文礼が鎮州に拠って叛き、晋王李存勗が張文礼を討伐した。張允は張文礼の子の張処瑾に従って魏州で降伏を願い出たが、許されず、張処瑾とともに獄に繋がれた。李存勗が鎮州と冀州を平定すると、張允は許されて、興唐府に留められて、興唐府功曹参軍をつとめた[1][2]。
後唐の同光4年(926年)、趙在礼が鄴都で起兵すると、張允は魏博節度推官に任じられた。趙在礼に従って横海軍節度掌書記・泰寧軍節度掌書記を歴任した。入朝して監察御史となり、右補闕・起居舎人を歴任した。弘文館学士・水部員外郎・知制誥をつとめた。清泰元年(934年)、皇子李重美が河南尹となり、判六軍諸衛事を兼ねると、その補佐役が求められ、張允は給事中に転じ、六軍判官をつとめた。ほどなく職から退任し、左散騎常侍に任じられた[3][2]。
後晋の天福3年(938年)、張允は朝廷が赦令を濫発していたことから、これを諫める「駁赦論」を進言した[4]。高祖石敬瑭はこれを称賛して、史館に送付した。天福5年(940年)、張允は礼部侍郎となり、三度科挙を主催した[5][6]。天福8年(943年)、御史中丞に転じた[7]。開運2年(945年)、兵部侍郎・知制誥に任じられ、翰林学士承旨をつとめた[8]。天福12年(947年)、契丹が開封府に入ると、張允は落職して兵部侍郎の官を守るのみとなった[5]。
後漢の乾祐元年(948年)、張允は吏部侍郎に任じられた。乾祐3年(950年)、楊邠や史弘肇らが処断された後、張允は相国寺の僧舎を宿とするようになった。郭威の軍が開封府に入ると、張允は仏殿の天井の上に隠れていたが、天井から落ちて死去した。享年は65[9][6]。