趙在礼

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趙 在礼(ちょう ざいれい、882年 - 947年)は、末から五代十国時代にかけての軍人は幹臣。本貫涿州[1][2]

はじめ盧龍軍節度使の劉仁恭に仕えて小校となった。乾寧5年(898年)、劉仁恭がその子の劉守文を派遣して義昌軍節度使の盧彦威を追放し、その城を占拠すると、在礼は軍使に昇格し、劉守文を補佐した。開平4年(910年)、劉守文が死去すると、在礼はその子の劉延祚に仕えた。劉延祚が劉守光に殺害されると、在礼は劉守光の子の劉継威に仕えた。乾化2年(912年)、劉継威がまた部将の張万進に殺害されると、在礼は張万進に仕えた。張万進が後梁に降伏すると、在礼は横海軍節度留後の毛璋とともに晋王李存勗に帰順した[1][2]

後唐同光3年(925年)、銀槍効節軍指揮使となり、貝州に駐屯した。同光4年(926年)2月、瓦橋関の守備を終えて帰途にあった軍士の皇甫暉らが、滞在先の貝州において反乱を起こした(鄴都の変)。皇甫暉が賭博に負けたことをきっかけとした突発的なものであったが、駐屯期限の超過による不満や望郷の念を抱いていた兵たちがこれに同調し、大規模な蜂起へと発展した。反乱軍は当初、指揮使の楊晸[注釈 1]を首領に立てようとしたが、楊晸が拒絶したため殺害。その副官もまた拒んだため殺害された。次に反乱軍は在礼を擁立しようとしたが、在礼は難を逃れようと塀を乗り越えて逃走を図った。しかし、皇甫暉に足を掴まれて引きずり降ろされ、殺害された楊晸らの首級を突きつけられて脅迫されたため、 拒みきれず首領となることに同意した。2月6日、反乱軍を率いて鄴都に進軍し、監軍武徳使の史彦瓊が防備を怠った隙を突いて北門から入城を果たした。在礼は魏博節度留後を自称し、王正言ら現地の官僚を従わせた。

後唐の荘宗(李存勗)は元行欽を派遣して招撫にあたらせた。元行欽が鄴に到着すると、在礼は牛肉や酒を贈って元行欽の軍をねぎらい、反乱はただ帰郷を願ったがためのものであり、死罪を免じるならば改過自新すると伝えた。しかし、史彦瓊が大声で罵り、「城が落ちた後には、反乱軍を粉々に切り刻んでやる(砕屍万段)」と言い放ったため、魏博軍は降伏を断念し固守を強めた。次に荘宗は李嗣源を派遣して反乱を討たせた。しかし、李嗣源もまた部下に推戴され、反乱軍へと加わることとなり、在礼は李嗣源を迎えて入城させた。4月、洛陽で荘宗が殺害され李嗣源(明宗)が即位すると、天成元年(926年)5月に在礼は義成軍節度使・検校太保に任じられた。ほどなく魏博節度留後・興唐尹・鄴都留守に転じた。12月、横海軍節度使となった。天成2年(927年)7月、泰寧軍節度使に任じられた。長興元年(930年)、入朝して左驍衛上将軍となった。まもなく匡国軍節度使として出向した。石敬瑭が明宗(李嗣源)の命を受けて大軍を率いて後蜀を討つと、在礼は西川行営歩軍都指揮使として従軍し、剣州を陥落させて凱旋した。長興4年(933年)、山南東道節度使に転じた。清泰2年(935年)、帰徳軍節度使に任じられ、検校太尉・同平章事を加えられた[3][4]

後晋天福3年(938年)、在礼は天平軍節度使となり[5]、検校太師を加えられ、侍中を兼ねた。天福4年(939年)、衛国公に封じられた[6]。天福6年(941年)7月、忠武軍節度使に転じた。天福8年(943年)4月、武寧軍節度使に任じられ、楚国公に進封された。開運元年(944年)8月、少帝契丹への北征を命じると、在礼は北面行営馬歩軍都虞候となった。11月、北面行営副都統に進んだ。少帝の命を受けて澶州に駐屯し、副都統のまま兗州節度使に任じられた。開運3年(946年)1月、晋昌軍節度使に転じた。5月、秦国公に進封された[7][8]

契丹が開封府に入ると、在礼は京兆府から開封府に赴いた。契丹の奚王拽剌(奚王掃剌の子)らに洛陽で面会すると、在礼は契丹の首領たちに侮辱を加えられ、財産の供出を求められたので、憤懣に堪えなかった。在礼が鄭州にいたり、旅館に泊まっていると、劉継勲が契丹に捕らえられたと聞いて驚愕した。開運4年(947年)1月25日夜、在礼は衣の帯で馬小屋に首をくくって自殺した。享年は66[注釈 2]。天福12年(同年)、後漢高祖が即位すると、在礼は中書令の位を追贈された[9][8]

人物・逸話

  • 在礼は十数カ所の節度使を歴任し、資産運用を得意としたたため、巨万の財産を蓄えた。洛陽開封府や節度使の駐屯地には、いずれも在礼の邸や店が軒を連ねた。
  •   宋州にいたとき、蝗害が発生したが、在礼は家ごとにのぼり旗を張らせ、攻め太鼓を鳴らさせると、イナゴは州境を越えて去っていった。
  • 権勢ある有力者や仏教寺院には重税を課した。
  • 帰徳軍節度使としての統治は過酷を極め、民衆はその苛政に苦しんだ。任期が満了し、在礼の移鎮が決まると、宋州の民衆は 「眼中の釘が抜けた」 と喜び合った。このことを聞いた在礼は激怒し、朝廷に請願して任期をもう一年の留任を認めてもらうと、報復として民衆に一千銭の重税を課した。在礼はこれを「抜釘銭(釘を抜くための代金)」と称して強制的に徴収した。この逸話は、ひどく目障りなものを指す「眼中の釘」という言葉の由来となった。

家族

脚注

伝記資料

参考文献

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