張帰弁
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経歴
中和4年(884年)、兄の張帰覇や張帰厚とともに朱全忠に帰順し、牙校に任じられた。ときに朱全忠は汴州宣武軍に駐屯したばかりで、たびたび帰弁に命じて近隣藩鎮との誼を結ばせるために派遣した。帰弁は外交官としての儀礼を備えていた。乾寧年間、わずかな軍勢を率いて葛従周を補佐して、太原の李克用の軍を洹水で防いだ。光啓年間、張存敬を補佐して幽州の劉仁恭の軍と内黄で戦った。前後の功により、推薦されて検校工部尚書となった。大順元年(890年)、朱全忠が鄆州の朱瑄や兗州の朱瑾を攻撃すると、帰弁は朱友諒を補佐して単父に駐屯した。ほどなく斉州指揮使となった[1]。
天復2年(902年)、青州の王師範が叛くと、商人と偽って将軍を斉州に派遣し、車数十乗を引いて、その中に兵器を隠していた。帰弁は謀略を察知してこれを捕らえたので、斉州の州城は守られた。天復3年(903年)春、青州軍が来攻したが、斉州の兵は少なく、民心は動揺した。斉州の都将の康文爽ら3人が青州軍に呼応しようと図ったため、帰弁は即座にかれらを捕らえて処刑し、人心を安定させた。帰弁は私財を供出して、兵士の褒賞として給与した。青州が平定されると、帰弁は検校右僕射を加えられ、愛州刺史を遥領した。荊州・襄州への征討に従って帰り、検校左僕射を加えられた。天祐3年(906年)春、朱全忠が魏州に入って牙軍を粛清すると、魏博の州県の多くが叛いたので、帰弁は諸将らとともにこれらを討ち、魏博を平定した。帰弁は高唐で太猛の反乱軍を攻撃し、矢に当たって負傷した。5月、権知晋州をつとめた。11月、正式に晋州刺史に任じられ、検校司空を加えられた[1]。
開平元年(907年)、後梁の太祖(朱全忠)が即位すると、帰弁は滑州長剣指揮使に転じた。開平2年(908年)9月、晋軍が平陽を包囲すると、帰弁は勅命を受けて兵を率いて救援した。軍が到着すると、平陽の包囲を解き、検校司徒を加えられた。開平3年(909年)3月、病床につき、滑州の私邸で死去した[1][4]。