張廷蘊

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張 廷蘊(ちょう ていうん、879年 - 947年)は、末から五代十国時代にかけての軍人は徳枢。本貫宋州襄邑県[1][2]

若くして勇敢敏捷で、はじめ汴州に属して伍長となった。天復年間、太原府に逃れて、李克用の幕下で小校となった。晋王李存勗潞州を救援し、柏郷で戦い、薊門を攻め、邢州魏州を下すにあたって、廷蘊はいずれも従軍した。のちに莘県の戦いや胡柳陂の戦いで、相次いで流れ矢に当たり、顔面を負傷した。御営黄甲軍を率い、つねに李存勗の側近にいた。検校兵部尚書・帳前歩軍都虞候を加えられ、諸軍濠寨使をつとめた[1][2]

後唐同光元年(923年)、廷蘊は李嗣源に従って中都県を奪取し、検校尚書右僕射を加えられ、魏博三城巡検使をつとめた。ときに劉皇后の部下が鄴都を騒がせたので、廷蘊はその多くを斬った。後梁が平定されると、廷蘊は入朝して帳前都指揮使となり、右羽林軍都虞候を兼ねた。李継韜の旧将の楊立が潞州で反乱を起こすと、李嗣源が招討使として、元行欽が都部署として派遣され、廷蘊は先鋒をつとめた。軍が潞州に到着すると、日はすでに薄暗くなっており、軍を休ませることに決まった。しかし廷蘊が率先して精鋭の兵100あまりを率いて、堀を越えて城壁に穴をあけたので、城を守る者たちは防ぐことができず、ほどなく城門を斬り破って諸軍が入城した。李嗣源と元行欽が明け方に到着すると、潞州の州城はすでに陥落していたことから、李嗣源は喜んだ。凱旋すると、廷蘊は右羽林軍都指揮使に転じ、検校司空を加えられ、申州刺史を代行した。同光3年(925年)、魏王李継岌に従って前蜀を討ち、行営中軍都指揮使に任じられた[3][2]

天成元年(926年)、明宗(李嗣源)が即位すると、廷蘊は懐州刺史となり、竭忠建策興復功臣の号を賜り、検校司徒を加えられた[4][2]。天成3年(928年)、金州防禦使に転じ[5]、検校太保を加えられ、潁州団練使・沿淮招安使を歴任した。応順元年(934年)、隴州防禦使に転じた。清泰2年(935年)、清河郡公に進封された[4][2]

後晋天福元年(936年)、高祖石敬瑭が即位すると、廷蘊は入朝して右龍武軍統軍となった[4][2]。天福4年(939年)、絳州刺史として出向した[6]。天福7年(942年)、少帝が即位すると、廷蘊は左領軍衛上将軍に任じられ、特進を加えられた。開運3年(946年)冬、老病のため引退を求め、宋城県に帰った。天福12年(947年)、家で死去した。享年は69[4][2]

家族

  • 祖父:張立(贈驍衛将軍)
  • 父:張及(贈光禄大夫[1]
  • 長男:張光被(通事舎人)[4]

脚注

伝記資料

参考文献

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