張朗

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張 朗(ちょう ろう、870年 - 943年)は、五代十国時代軍人本貫徐州蕭県[1]

経歴

張楚の子として生まれた。若くして弓射を得意とし、人より膂力に優れ、郷里に畏敬された。朱全忠にその名を知られて、蕭県鎮使に任じられ、蕭県都游奕使をつとめた。一年あまりして、宣武軍内牙都将に任じられた。河南府歩軍都指揮使・曹州開武都指揮使・開封府牙内都指揮使・鄆州都指揮使を歴任した[1]龍徳2年(922年)、招討使の段凝に従って衛州を襲撃して攻め落とし[2]、衛州刺史に任じられた[3]

後唐同光3年(925年)、張朗は魏王李継岌に従って前蜀を討ち、先鋒橋道使をつとめた。明宗のとき、興州忠州鄧州の刺史を歴任した。清泰元年(934年)、契丹が北辺を侵犯すると、張朗は北面行営歩軍都指揮使に任じられ、石敬瑭に従って代北に軍を駐屯させた。まもなく代州刺史を兼ねた。さらに北面行営馬歩軍都虞候に転じた。清泰3年(936年)、石敬瑭が太原府で起兵すると、張朗に使者を派遣して同調するよう説得させたが、張朗は「人臣たるに二心あるべきか」といって、その使者を斬り捨てた[3]

後晋の高祖(石敬瑭)が洛陽に入り、華北の節度使が入朝すると、張朗は貝州防禦使に任じられた。天福5年(940年)、左羽林軍統軍に任じられた。天福6年(941年)、光禄大夫検校太傅慶州刺史として出向した。天福8年(943年)、死去した。享年は74[3]

脚注

伝記資料

参考文献

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