張沆

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張 沆(ちょう こう、生年不詳 - 952年)は、五代十国時代文人官僚は太元。本貫徐州[1]

徐州牙将の張厳の子として生まれた。若くして学問につとめ、詞や賦を修め、進士に及第した。後唐明宗の子の秦王李従栄は文学を好んだが、幼年のため粗略で軽率であり、行動が礼儀にかなっていなかった。幕僚を集めては、自ら出題して面前で詩を賦させたが、少しでも気に食わないと、破り裂いて捨ててしまった。張沆が李従栄に面会すると、李従栄は客に列座させて「南湖庁記」の題で文を作らせた。李従栄は張沆の文を気に入って石に刻ませた。これにより張沆は河南府巡官に任じられた。長興4年(933年)、李従栄が敗死すると、張沆は郷里に帰った[1]

後晋天福元年(936年)、桑維翰が政権を握ると、張沆は文才により進められ、著作佐郎・集賢院校理として任用され、右拾遺に転じた。桑維翰が節度使として出向すると、張沆はその下で記室をつとめた。桑維翰に従って入朝し、殿中侍御史に任じられた。一カ年あまりして、侍御史から祠部員外郎・知制誥に転じ、翰林学士となった。桑維翰が宰相を退任し、馮玉が宰相として用いられると、張沆は禁中の機密に近づくのを望まれず、右諫議大夫に任じられ、翰林学士から罷免された[1]

天福12年(947年)、後漢の高祖劉知遠開封府に入ると、張沆は右散騎常侍に転じ、再び翰林学士に用いられた[1]乾祐元年(948年[2]、翰林学士のまま工部尚書に転じた[1]。乾祐2年(949年[3]、葬儀のために解職を願い出て、礼部尚書に転じた。帰朝して再び翰林学士となった[1]

後周広順元年(951年)、刑部尚書に任じられた[4]。広順2年(952年)8月[5]、耳の病のため翰林学士を解任され、刑部尚書のみとなった。亡くなった斉王高行周の冊贈使をつとめるよう命じられた[1]。11月、復命して死去した[6]。太子少保の位を追贈された[1]

脚注

伝記資料

参考文献

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