張知謇
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若くして読書に励み、明経に及第した。調露年間以後、尚書省の官を歴任した。天授年間以後、房州・和州・舒州・延州・徳州・定州・稷州・晋州・洺州・宣州・貝州の刺史を歴任した。知謇が徳州から入朝したとき、武則天はその才幹を重んじて、画工に命じてかれの肖像を描かせた[2][1]。
かつて知謇が房州刺史であったとき、中宗が廬陵王として房州に安置されると、知謇は中宗を手厚く保護した。神龍元年(705年)、中宗が復位すると、知謇は召還されて左衛将軍となり、雲麾将軍を加えられ、范陽郡公に封じられた[2][1]。
景龍2年(708年)、知謇は洛州長史・東都副留守となった。さらに左羽林軍大将軍・同州刺史・華州刺史を歴任した。大理寺卿として致仕した。開元年間に死去した。享年は80[3][1]。