張筠
From Wikipedia, the free encyclopedia
唐の乾符末年、江淮地方が騒がしくなると、家を彭城県に移した。感化軍節度使の時溥が東南面行営招討使となると、張筠は偏将に抜擢された。軍功を重ねて、宿州刺史に任じられた。大順2年(891年)、時溥が宣武軍節度使の朱全忠と敵対すると、朱全忠の軍が宿州を攻め落とし、張筠は捕らえられて朱全忠に帰順した。弁論に優れ、四鎮客将に任じられた。長らくを経て、長直軍使に転じた[1][2]。
後梁が建てられると、張筠は右龍武軍統軍に転じ、客省使・宣徽使を歴任した。復州刺史・商州刺史として出向し、再び宣徽使となった[1]。貞明元年(915年)、相州に昭徳軍節度が置かれると、張筠は昭徳軍節度使となった[3][4]。貞明2年(916年)、晋王李存勗が魏州に入ると、張筠は相州を放棄して開封府に帰り[5][6]、右武衛上将軍に任じられた。貞明3年(917年)、知商州軍州事をつとめた[7]。貞明4年(918年)、右衛上将軍に転じた[8]。永平軍節度使の康懐英が病のため引退を願い出ると、張筠はこれに代わって永平軍節度留後となり、判大安府事を兼ねた[9]。貞明5年(919年)、検校太保・永平軍節度使となり、大安尹を代行した[10]。張筠は康懐英が長安で貯めこんでいた家財を全て奪った。また宮殿のあった地を掘り返して、金玉を得た。ときに涇陽鎮将の侯莫威が温韜とともに唐の諸陵を盗掘して財宝を蓄えていたが、張筠は侯莫威を殺して、その財産を奪った。張筠は巨万の富を得たが、施しを好んで貧民に衣食を給与した。統治にあたっても税賦を省いて収奪しなかったので、民衆は10年の小康を得て、張筠のことを「仏子」と呼んだ[11][12]。
後唐の同光元年(923年)、張筠は西都留守となり、京兆尹を代行した[13]。同光3年(925年)、郭崇韜に従って剣南西川管内宣撫使として出向した[14]。前蜀が平定されると、張筠は洛陽に帰り、河南尹を領知した[11]。天成元年(926年)、検校太傅を加えられ、山南西道節度使をつとめた[15]。張筠は病にかかり、軍州の官吏が面会することができなかった。山南西道節度副使の符彦琳らは張筠がすでに死んだものと疑って、牌印をよこすよう求めた。張筠は側近に命じて符彦琳を獄に下し、かれらが反乱を起こしたと奏聞した。符彦琳らが洛陽に送られると、その罪は不問に付された[11][12]。天成2年(927年)、張筠は再び西都留守とされた[16]。長安に到着すると、守兵が門を閉ざして入れなかったため、張筠は東行して洛陽に入朝した。帰宅すると、かつて前蜀の王衍を殺して奪った妓楽や財宝を私蔵していた。広壮な邸宅で音楽や飲食を楽しむ気ままな生活を送り、「地仙」と称された[11][12]。
後晋の天福2年(937年)、張筠は上表して長安に帰りたいと願い出た。まもなく洛陽で張従賓の乱が起こったが、張筠は難を免れることができた。この年のうちに、家で死去した。太子太師の位を追贈された[注釈 1][11][17]。