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温韜

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温 韜(おん とう、生年不詳 - 928年)は、唐末から五代十国時代にかけての官僚・盗掘者。本貫は京兆府華原県[1][2]。

経歴

若くして反乱者となり、華原県に拠った。李茂貞に仕えて、李姓を賜り、名を彦韜といった。天祐3年(906年)、李茂貞により華原県に耀州が置かれると、彦韜は耀州刺史となった。朱全忠が李茂貞を鳳翔府に包囲すると、彦韜は耀州ごと朱全忠に降った。再び叛いて李茂貞に帰順した。李茂貞により美原県に鼎州が置かれ、義勝軍が建てられると、彦韜は義勝軍節度使となった。後梁の末帝のとき、彦韜は再び李茂貞から離反して後梁に降った[1][2]。貞明元年(915年)、義勝軍が静勝軍と改称されると、彦韜は特進・検校太傅・同平章事・静勝軍節度使となった。温姓にもどり、名を昭図と改めた[3]。昭図は領域内にある唐の陵墓を全て暴いて、所蔵されていた財宝を入手した。昭陵も盗掘して、前代の図書や鍾会や王羲之の書を確認した。貞明6年(920年)、朱友謙が後梁から離反して晋王李存勗に降ると、昭図は恐れて他鎮を求めた。龍徳元年(921年)、匡国軍節度使(唐の忠武軍節度使)に移された[1][2]。

昭図は趙巌と仲が良く、趙巌を頼りにしていた。同光元年(923年)、後唐の荘宗が開封府に入ると、趙巌は昭図を頼って許州に逃れた。昭図は趙巌が邸に入ると、斬首して荘宗のもとに送った。この年、匡国軍は忠武軍の称にもどされた[4]。昭図が入朝すると、唐の陵墓を暴いた賊として郭崇韜に弾劾された。昭図は劉皇后に賄賂を贈って、李紹沖と姓名を改めた。天成元年(926年)、明宗が洛陽に入ると、紹沖は段凝とともに収監されたが、釈放されて郷里に帰された。天成2年(927年)、温韜は徳州に流された[1][2]。天成3年(928年)9月23日、死を賜った[5]。

子女

  • 温延浚(長男、清泰年間に泥水関使となった)
  • 温延沼(次男、温韜の牙帳で都校をつとめた)
  • 温延袤(三男、鄧州指揮使)

3人ともに許州に居住していた。後晋の天福初年、河陽における張従賓の乱に参加しようとして斬られた。[1]

脚注

伝記資料

参考文献

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