張繡

中国後漢末期の武将。涼州武威郡祖厲県の人。 From Wikipedia, the free encyclopedia

張 繡(ちょう しゅう)は、中国後漢末期の武将。季父は張済[1]。子は張泉・女子一人。涼州武威郡祖厲県(現在の甘粛省武威市靖遠県)の人。『三国志』巻8「魏書」二公孫陶四張伝に伝がある。

出生 生年不詳
涼州武威郡祖厲県
死去 建安11年(207年
拼音 Zhāng Xiù
諡号 定侯
概要 張繡, 後漢 破羌将軍 ...
張繡
清代の書物に描かれた張繡
代の書物に描かれた張繡
後漢
破羌将軍
出生 生年不詳
涼州武威郡祖厲県
死去 建安11年(207年
拼音 Zhāng Xiù
諡号 定侯
主君 劉雋→董卓張済→独立勢力
曹操→独立勢力→曹操
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繁体字 張繡
簡体字 张绣
拼音 Zhāng Xiù
英文 Chang Hsiu
Zhang Xiu
概要 張 繡, 各種表記 ...
張 繡
各種表記
繁体字 張繡
簡体字 张绣
拼音 Zhāng Xiù
英文 Chang Hsiu
Zhang Xiu
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生涯

若い頃は県長劉雋の抜擢を得て、県吏として仕えた。しばらくして、韓遂辺章らに呼応した麹勝が謀反を起こし、劉雋を殺害した。張繡は隙を見て麹勝を暗殺し、上司の仇を討ち武名を挙げた。その後、当時董卓の配下であった季父の張済に従った。李傕郭汜政権下で建忠将軍・宣威侯となっている[2]

建安元年(196年)、季父が南陽郡の穣を攻略中に、流れ矢に当たって戦死したために、その軍勢を張繡が継ぐ事となった。その後、新たに参謀として加わった賈詡は、張繡に対し「将軍(張繡)は軍才に優れておられるが、曹操には及ばない」と語ったと言われる。張繡は賈詡の進言に従い、賈詡を派遣して劉表と同盟を結んだ。張繡はに駐屯し、劉表軍と合流した。

建安2年(197年)春、曹操が南陽郡に侵攻し淯水に陣営を置くと、張繡は軍勢を引き連れて曹操に降伏した。ところが、曹操が亡き季父の張済の妻であった未亡人を側妾にしたために、張繡は恨みを抱くようになった。曹操は張繡が恨んでいる事を知ると、密かに張繡を殺害する計画を立てた。しかし張繡はこの計画に気づくと、賈詡の進言を容れて、曹操に奇襲をかけた。この奇襲で張繡は、曹昂曹安民典韋などを含む多くの将兵を討ち取り、勝利を得た。曹操が舞陰に撤退すると、張繡は騎兵を引き連れて舞陰を攻めたが、撃退された。このため張繡は再び劉表と同盟を結び、穣に駐屯した。曹操が許昌に帰ると、南陽郡の諸県は曹操に反逆し、再び張繡に味方する事になった。

その後も、張繡・劉表は曹操と抗争を続けた。建安3年(198年)に曹操が穣に攻め寄せた時は、劉表の派遣した援軍のおかげで、張繡は勝利した。曹操は張繡に退路を絶たれたので、撤退すらままならなくなったが、伏兵を用いて張繡軍を大いに破った。曹操軍の荀攸によれば、張繡軍はまるで劉表軍の遊撃隊のようであり、また劉表に食料を頼っていたという。

建安4年(199年)11月、当初張繡は袁紹からの同盟の誘いを受けるつもりであったが、賈詡から「大勢力たる袁紹との戦いを控えた今の曹操は、味方になる勢力を必ず厚遇するでしょう」と進言され、これに従って曹操に帰順し揚武将軍となり列侯に封じられた。帰順後、張繡の娘は曹均の妻として迎えられている。建安5年(200年)、官渡の戦いで武功を挙げ破羌将軍に昇進した。また曹操に従い袁譚を破ったため、加増を受けて領邑が合計2,000戸になった。

建安12年(207年)、柳城の烏桓征伐中に陣中で病死した。定侯と諡号を贈られた。『三国志』魏志張繡伝が注に引く『魏略』によると、張繡は曹昂の異母弟である曹丕の元へ、何度か頼み事に赴いた。しかし曹丕から「お前は私の兄を殺したのに、どうして平気な顔をして会えるのだ」と言われたために、これに不安を感じ自殺したのだと言われている。子の張泉が後を継いだが、建安24年(219年)に魏諷と共に曹家政権の転覆を目指すクーデターを謀って失敗し、領地を没収され処刑された。

物語中の張繡

漫画『三国志演義』(1957年)に描かれた張繡

小説『三国志演義』にも登場し、ほぼ正史通りの活躍を演じているが、曹操に降伏した後は登場しない。賈詡の進言を良く聞く人物として描かれている。

配下

三国志演義』でのみの配下

  • 張先:『演義』第17回に登場。雷叙と同じく南陽城外へ張繡に従い出陣。曹操軍の許褚一騎討ちするが、わずか3合で斬って捨てられている。
  • 雷叙:『演義』第17回に登場し、南陽城外で曹操軍を迎撃するために張繡に従い出陣。活躍は特にない。

脚注

外部リンク

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