典韋
後漢末期の武将
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来歴
堂々とした体格で怪力、さらに固い節義と男気を有していた[1]。
若い頃、襄邑の劉氏のために彼の仇であった李永を討つ事にした。李永は以前富春県長を務めていたため、厳重な警備をつけていた。典韋は懐に匕首を忍ばせ、表面上は普通の客を装っていたが、門を開かせるとたちまち李永を刺し殺し、ついでにその妻をも殺した。近所に市場があったため大騒ぎとなったが、しばらく誰も典韋に近づく者はおらず、遠巻きにして後をつけるのみであった。やがて典韋は敵の仲間に出くわしたものの、あちこちで戦って脱出に成功した。この一件で豪傑として知られるようになった[3]。
初平年間に張邈が挙兵すると、その司馬の趙寵に兵士として仕えた。誰も持ち上げられなかった牙門の旗を片手で持ちあげたので、趙寵に一目おかれるようになった。後に曹操軍の夏侯惇配下となり、何度か戦功を挙げ、司馬となった[4]。
濮陽で呂布と曹操が戦ったとき、典韋は数十人の突撃隊を率いて、短戟を手に矢の雨の中で奮戦し呂布軍を防ぎ止めた。都尉となり、曹操の親衛隊であった精鋭数百人を率い、戦闘のたびに先鋒として敵陣を陥れた。これらの功績により昇進して武猛校尉となった[5]。
忠心があり謹み深い性格だった。昼はずっと曹操の傍で侍立し、夜は帳の左右で宿衛したため、自らの家に帰って寝る事は殆どなかった。飲み食いの量は人の倍で、御前で食膳を賜る時は左右から酒を注がせ、給仕を数人に増やしてやっと間に合うほどだった。大きな双戟(双鉄戟)と長刀などを愛用し「帳下の壮士に典君あり。一双戟八十斤[6]を提ぐ」と囃された[7]。
建安2年(197年)春正月、曹操が荊州の張繡を征伐し降伏させた時も、典韋は従軍した(「武帝紀」)。酒の席で一尺ほどの大斧を持って張繡たちを睨みつけたため、誰も顔を上げられなかったという[8]。
その後、張繡が謀反を起こすと、曹操を逃がすべく部下達とともに戦った。典韋が守っていた陣門には敵が侵入できなかったが、敵は他の門から陣に侵入した。典韋と十数人の部下は多数の敵に囲まれたが、みな一人で十人を相手にした。典韋が鉄戟を一振りすると、敵の矛が十数本砕かれた。いよいよ部下が死に絶え、自身も数十の傷を負ったが、典韋は敵二人を両脇に挟んで撃殺した。これを見た敵は近づくことができなかった。典韋は最後、突進し数人を殺してから、目を怒らせて口をあけ、大声で罵りながら死んだ。敵は恐れながら近付いて典韋の首を取り、全員でその遺体を見物したという[9]。
曹操は舞陰で典韋の死を聞くと涙を流し、子である曹昂の死以上に悲しみ、遺体を取り戻すために志願者を募った。曹操は告別式で泣き、棺を陳留郡襄邑に送り届けさせた。その後、曹操は戦死した場所を通るたびに典韋を弔い、彼の子である典満を郎中とし、後に司馬に採り立てて側に置いた[10]。
正始4年(243年)秋7月、曹芳(斉王)は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。典韋は校尉という高くはない地位であったにもかかわらず、この中に含まれている(「斉王紀」)[11]。