後藤乾一
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- 1965年 早稲田大学第一政治経済学部政治学科卒業、アジア経済研究所研究員(-1973年)[1]
- 1970年 コーネル大学大学院政治学研究科修士課程修了修了(フルブライト奨学生)
- 1973年 早稲田大学社会科学研究所助手。
- 1981年 早稲田大学社会科学研究所教授。
- 1993年 早稲田大学社会科学研究所所長(-1997年)。
- 1996年 慶應義塾大学より博士(法学)の学位取得。[1]
- 1997年 早稲田大学アジア太平洋研究センター教授(-2013年)。
- 1998年 早稲田大学大学院アジア太平洋研究科委員長(-2000年)。
- この間、東京大学大学院人文社会系研究科・国立インドネシア大学文学部客員教授を務める。
主張
ブキチンギの穴(日本の穴)
(詳しくはブキティンギ#最近の日本との関係を参照のこと)
1986年の北海道新聞に、第2次世界大戦中にオランダ軍を破って軍政を敷いた日本陸軍が第25軍の司令部を置き、戦後はインドネシアがオランダからの独立を果たすまで臨時政府を置いたスマトラ島のブキティンギに、日本軍がジャワ島等の人間を労務者として連行してきて作ったとみられる地下壕が、長らく人知れず存在していた、その突き当りに、断崖の外に通じる急角度の穴があり、これは、日本軍が要塞を作り、その際にインドネシア人労務者が衰弱して死んだ場合に外に放り出して捨てた穴である、という「ブキチンギの穴(日本の穴)」を現地で聞いた話を元に寄稿した[2][3]。これらの労務者は最終的に機密保持のために残っていた者も全員殺されたと、現地住民の間では信じられ、その数は3000人とも言われている。
1987年、インドネシア政府は遺構を「インドネシア労務者を殺害し、遺棄した遺跡」として国定公園として整備した[2]。かつて産経新聞にいたジャーナリストの加藤裕は当時の日本軍関係者に取材、現場工事の責任者であった主計大尉が、工事中は一人の死傷者も無く、作業に従事した労務者達には日当が支払われており、ここは要塞ではなく防空壕であると説明したことを伝えた[3]。彼らの抗議を受けて地下壕入口にあった日本軍による労務者の連行や虐待を描いたレリーフは1997年に撤去され、加藤はこれを、虐殺はなかったとインドネシア政府が間違いを認めたものとする[2]。しかし、現地では観光地として公開される以前、多くの者がこの穴の中で残された鍬や頭蓋骨を目撃したと伝えられている[4]。また、2001年にここから生還できたという労務者の一人がブキティンギに姿を現したというニュースが流れ、彼の穴の複雑な構造に関する話は既存のデータと一致していた(穴の公開されている部分や説明板等に構造が表示されている部分は実際には全体のごく一部であるため、本物の生存者であったという意味)が、その人物はそこで受けた拷問がトラウマになっていたため、また洞窟に誘われるのを嫌がっていたという[5]。2018年日本人の現地からの報告では、今なお現地ガイドは労務者らが殺されたものとして説明している[6]。
東ティモールの戦時支配の歴史
1999年8月11日の朝日新聞夕刊で「過酷な戦時支配の歴史」と題して、日本軍により東ティモールで島民約4万人の死者が出たと主張したが、根拠は不明のままである[3]。