後賛

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後 賛(こう さん、生年不詳 - 951年)は、五代十国時代官僚。名は匡賛[1]本貫兗州瑕丘県[2]

後賛の母はもとは倡楼の倡女であり、父はその家に往来して後賛が生まれた。後賛は幼くして歌を得意とし、後唐の泰寧軍節度使の張延朗に仕えた。張延朗の死後、後晋劉知遠に仕えた。後賛は四方館の職に従事したが、父は兗州を離れたことがなかった。後賛が成長すると、その出生を疑った。後賛は宮中の職についたが、父に来てほしくなかった。手紙を書いて遠回しにその意を伝えたが、父は上京して、かれの邸に直接やってきたので、後賛はやむを得ず父を世話した[3][2]

天福12年(947年)、後漢の高祖劉知遠が即位すると、後賛は飛龍使となった。乾祐元年(948年)、宰相の楊邠や侍衛親軍都指揮使の史弘肇が政権を握り、後賛は長らく転任できなかったので、恨みを抱いた。乾祐3年(950年)、後賛は枢密承旨の聶文進らとともに楊邠らを粛清する政変を計画した。楊邠らを殺害すると、後賛は仲間たちとともに隠帝劉承祐の側近に侍り、軍事を分担し、離間の言を防いだ。北郊の兵が郭威に敗れると、後賛は兗州に逃げ帰った。泰寧軍節度使の慕容彦超に捕らえられ、役人に取り調べられて有罪が確定した。後周広順元年(951年)、太祖郭威の命により処刑され、首級を市にさらされた[4][2]

脚注

伝記資料

参考文献

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