徐彦若

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徐 彦若(じょ げんじゃく、生年不詳 - 901年)は、唐代官僚政治家は兪之[1]本貫河南府偃師県

咸通12年(871年)、進士に及第した[2]乾符元年(874年)、吏部員外郎から長安県令となった[3]。乾符5年(878年)、尚書郎のまま知制誥となり、正式に中書舎人に任じられた。文徳元年(888年)、昭宗が即位すると、彦若は御史中丞となった[2]大順2年(891年)、戸部侍郎同中書門下平章事(宰相)となった[4]検校戸部尚書に進んだ[2]景福2年(893年)、李茂貞に代わって鳳翔隴右節度使とされた[5][6]。しかし李茂貞が交代を受け入れなかったため[2]、彦若は再び知政事(宰相)となった[7]。のちに兵部侍郎に転じ、御史大夫となった。乾寧元年(894年)、中書侍郎・同平章事となった[8]。尚書左僕射・監修国史を兼ねた。乾寧2年(895年)、昭宗に従って石門に避難した。長安に帰ると、彦若は開府儀同三司の位を加えられ、司空を代行し、斉国公に封じられた。太清宮使・修奉太廟使をつとめ、弘文館大学士を加えられ、「扶危匡国致理功臣」の名を賜った。乾寧3年(896年)、昭宗が華州に避難すると、彦若は長安の留守をつとめた[2][9]光化元年(898年)、司徒となった[10]。光化2年(899年)、太保[11]門下侍郎の位に進められた。ときに崔胤は政権を専断しており、彦若が官位で上回っていることが面白くなかった[2][9]。光化3年(900年)9月、彦若は検校太尉・同平章事・広州刺史・清海軍節度使として出向した[12]天復元年(901年)、広州で死去した[2][13]

家族

武周のときの司刑寺少卿の徐有功の六世の孫である。

  • 玄祖父:徐倫
  • 高祖父:徐和玉
  • 曾祖父:徐宰
  • 祖父:徐陶
  • 父:徐商[14]
  • 弟:徐彦枢(太常寺少卿)
  • 子:徐綰(天祐初年に司勲員外郎・兵部員外郎を歴任し、のちに戸部郎中・兵部郎中をつとめた)[2]

脚注

伝記資料

参考文献

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