徳吉一己
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| 徳吉 一己 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 国籍 |
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| 出身地 |
鹿児島県姶良郡牧園町 (現・霧島市) |
| 生年月日 | 1941年2月1日(84歳) |
| 身長 | 160cm[1] |
| 体重 | 51kg[1] |
| 騎手情報 | |
| 所属団体 | 日本中央競馬会(JRA) |
| 所属厩舎 |
東京→美浦・森末之助(1957年-1985年) 美浦・フリー(1985年-1993年) |
| 初免許年 | 1958年3月1日 |
| 免許区分 | 平地・障害 |
| 騎手引退日 | 1993年2月28日 |
| 重賞勝利 | 14勝 |
| 通算勝利 | 4994戦536勝 |
徳吉 一己(とくよし かずみ、1941年2月1日 - )は鹿児島県姶良郡牧園町(現・霧島市)出身[2]の元騎手・現評論家。
騎手出身者として初めてJRA競馬学校騎手課程の教官となった。
同じくJRA騎手であった徳吉孝士は実子。
実家は数頭の馬を飼っており、中学生の時から競馬好きの兄に連れられて公営・鴨池競馬場を訪れ競馬にも親しんだ[3]。中学3年次には小柄であったことから騎手になることを勧められ、中央競馬の騎手養成長期課程を受験[3]。合格後騎手養成所に入り、1958年に東京・森末之助厩舎よりデビューし、同年9月7日にイチツバメで初勝利。
1968年の目黒記念(秋)・メジロタイヨウをはじめ、ヤマブキオーで重賞3勝を挙げるなど、数々の重賞勝利馬に騎乗した。“レースを操る職人”としてその名を知らしめ[4]、騎手生活晩年には日本騎手クラブ副会長を務めていた[5]。1993年初頭にJRA副理事長から競馬学校教官への転身を打診され[5]、同年2月28日をもって騎手を引退。通算成績は4994戦536勝、うち重賞14勝。なお、引退レースとなった同27日の中山第7競走新馬ではセントバルカンに騎乗して1位に入線したものの、審議があり6着への降着処分が下された。本来ならば6日間の騎乗停止(当時は原則として、降着・失格となった競走が行われた翌日から適用)となるが、翌28日で騎手免許を返上することになっていたため、騎乗停止はその日のみ適用という形になった。徳吉は引退後に行った杉本清との対談において、騎手生活の「一番の思い出」としてこのレースを挙げ、「これから教官になろうという人間ですからね、これは一生思い出に残るでしょう(笑)[3]」と語った。
翌3月より競馬学校で後進の指導に入り[5]、同年入学した第12期生からは福永祐一・和田竜二などの騎手が輩出され、「競馬学校花の12期生」と呼ばれた。鬼教官としてならしていたが[4]、2001年には森厩舎の弟弟子であった蓑田早人に後任を託して退職。以後は評論家として活動し、東京中日スポーツにて予想コラム「鬼教官の徳ダネ!」を連載[4]。競馬予想会社「七騎の会」スタッフも務めている[6]。