徳川剛 From Wikipedia, the free encyclopedia 生誕 1924年1月 日本 東京都死没 不明国籍 日本配偶者 徳川宝子とくがわ ごう 徳川 剛生誕 1924年1月 日本 東京都死没 不明国籍 日本配偶者 徳川宝子子供 徳川宜子(長女)徳川礼子(次女)親 青山由太郎(父)徳川為子(養母)テンプレートを表示 徳川 剛(とくがわ ごう、旧姓:青山 剛、1924年(大正13年)1月 - 没年不詳)は、紀州徳川家第18代当主。米国移民二世 (日系人)[1]。第16代当主・徳川頼貞の未亡人・為子の養子。離籍後は旧姓の青山剛に戻している。 1924年(大正13年)1月、米国日系移民・青山由太郎の次男として生まれる。1948年に早稲田大学を卒業後、GHQ勤務[1]。 1953年に紀州徳川家第16代当主・徳川頼貞の長女・宝子と結婚し、1956年に長女誕生。1958年(昭和33年)に17代当主だった徳川頼韶が早世したため、頼韶の母・為子の養子となって紀州徳川家を継いだ[2]。GHQを辞め、貿易会社を興したが失敗[1]。 当時の紀州徳川家は先々代の徳川頼貞の散財による多額の借金を抱えており、妻の為子がその返済のために1955年ごろに池袋西武百貨店で食堂「マルキーズ」(フランス語で侯爵夫人の意)を開き、宝子も東京都千代田区有楽町の日比谷三井ビルの地下に同名のレストランを開店したが、店の経営に失敗したため、剛は1964年に家族を残して渡米[1]。1965年(昭和40年)8月に宝子と離婚して紀州徳川家から離籍した。剛は経営権を売り渡して逃げたとされる[3]、その後ロサンゼルスでレストランを経営、日本女性と再婚したという[1]。 家族 父:青山由太郎(1889-) ‐ 米国日系移民。静岡県麻機村出身。1907年にメキシコのサリナ・クルスに入港するも米国のほうが栄えていると聞き、オックスナード (カリフォルニア州)に転じて甜菜畑の労働者となり、1913年に同郷の杉山吉三郎とともに同州ブローリーにて農園を共同経営[1][4]。青山農産商会を立ち上げ、1937年には米国中央日本人会の幹部となった[5][6]。 養母:徳川為子(1898-1989) ‐ 徳川頼貞の寡婦。島津忠義の娘で香淳皇后のいとこ。剛とはのち養子縁組解消。戦後レストラン経営 妻:徳川宝子(とみこ、1926-2022) ‐ 頼貞・為子の長女。1953年結婚、1965年離婚。離婚し店を手放したのちは高級洋装店の顧問のほか、財産の売り食い生活で娘たちを育てた[1]。脳梗塞にて95歳で死去[7]。 長女:徳川宜子(1956年11月5日生[8]) ‐ 建築家 次女:徳川礼子(1959年12月31日生[8]) ‐ フルート奏者 脚注 1 2 3 4 5 6 7 『週刊新潮』 (新潮社, 1980年8月28日号)p45-46 ↑ 霞会館諸家資料調査委員会編『昭和新修華族家系大成』吉川弘文館、1985年。 ↑ 本田靖春『現代家系論』文藝春秋、1973年、225頁。 ↑ 青山由太郎南加之日本人、戸田緑郎, 堀江寿人 博文閣、1919、p90 ↑ 在米日本人産業総覧 米国産業日報社、1940.11、p757 ↑ 米国中央日本人会史米国中央日本人会、1940.10、p438 ↑ 長保寺で納骨式 紀州徳川家19代当主の母わかやま新報、2022.6.28 1 2 平成新修旧華族家系大成下p169 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。表示編集 表話編歴紀伊徳川家第18代当主紀伊徳川家(宗家) 頼宣1619-1667 | 光貞1667-1698 | 綱教1698-1705 | 頼職1705 | 吉宗1705-1716 | 宗直1716-1757 | 宗将1757-1765 | 重倫1765-1775 | 治貞1775-1789 | 治宝1789-1824 | 斉順1824-1846 | 斉彊1846-1849 | 慶福1849-1858 | 茂承1858-1906 | 頼倫1906-1925 | 頼貞1925-1954 | 頼韶1954-1958 | 剛1958-1965 | 宜子1965-現在 分家・支流 御連枝(松平家) 西条松平家 頼純 頼致 頼渡 頼邑 頼淳 頼謙 頼看 頼啓 頼学 頼英 頼和 頼庸 頼実 高森松平家 頼職 | 断絶 葛野松平家 頼方 | 断絶 鷹司松平家 信平 信政 信清 信友 信有 信明 信成 信充 信敬 信任 信発 (吉井)信謹 吉井信宝 吉井信康 Related Articles