徳川義宜
日本の侍 (1858-1875)
From Wikipedia, the free encyclopedia
生涯
安政5年(1858年)5月、徳川慶勝の三男として誕生した[2]。幼名は元千代[2]。
文久3年(1863年)9月、徳川茂徳の跡を継いだ[2]。茂徳より1字を与えられて徳川徳成(ながなり)[6]〔旧字体: 德成[5]〕を名乗る(のちに養親子関係は解消された)。元治元年(1864年)に茂徳も隠居したため6歳で家督を継ぎ、諱を義宜(表記は義宣とも)に改める。
しかし幼少のため、執政は父・慶勝によってほとんど成されたという。慶応4年(1868年)、戊辰戦争が起こると父と共に新政府軍に帰属し、新政府軍が東海道を江戸に向けて出征を開始すると、その先鋒を務めた。徳川慶喜隠居後の徳川宗家次期当主候補に擬せられたこともある。しかしもともと病弱だったため、慶勝の影に隠れ、主体性は薄かった。
明治8年(1875年)11月[5][2]、18歳で夭折した。法号は隆徳院殿。号は松堂、靖公。義宜の死後は父・慶勝が当主として復帰している。
死後
三輪神社 (名古屋市)に祭神として祀られている[7]。