徳川義礼
日本の政治家 (1863-1908)
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経歴
旧讃岐高松藩主・松平頼聰の次男。幼名は晨若。明治9年(1876年)5月9日、旧尾張藩主・徳川慶勝の婿養子となり、明治13年(1880年)9月27日に尾張徳川家の家督を相続する。明治17年(1884年)7月7日、華族令制定にともない侯爵となる。同年9月からイギリスに留学、明治20年(1887年)10月に帰国する。留学によりキリスト教に惹かれるようになったようである。
帝国議会開設に伴い、明治23年(1890年)2月、貴族院侯爵議員となる[1]。明治24年(1891年)、芸妓に入れ込むようになったとされる義礼の不品行をめぐり、旧尾張藩士らが養子縁組解消を要求し、大きな騒動となったが、徳川家達ら徳川一門の仲裁によって取り静められる。神奈川県中郡大磯町の別荘跡地は、現在は大磯町立大磯中学校となっている。
明治41年(1908年)に徳川義親(松平春嶽の五男)を長女・米子の婿養子とし、同年に義礼が死去すると義親が家督を相続した。
栄典
- 1884年(明治17年)7月7日 - 侯爵[2]
- 1885年(明治18年)5月4日 - 木杯一個・木杯一個[3]
- 1886年(明治19年)
- 1887年(明治20年)12月26日 - 正五位[6]
- 1888年(明治21年)10月29日 - 木杯一個[7]
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[8]
- 1890年(明治23年)
- 1891年(明治24年)
- 1893年(明治26年)
- 1894年(明治27年)5月17日 - 銀杯一組[18]
- 1895年(明治28年)3月23日 - 木杯一個[19]
- 1896年(明治29年)3月29日 - 銀盃一組[20]
- 1897年(明治30年)6月30日 - 勲四等瑞宝章[21]
- 1898年(明治31年)6月20日 - 従三位[22]
- 1899年(明治32年)1月21日 - 木杯一組[23]
- 1900年(明治33年)
- 1903年(明治36年)6月30日 - 正三位[26]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 旭日小綬章[27]
- 1907年(明治40年)4月9日 - 木杯一組[28]
- 1908年(明治41年)