Wikiwand AI

徳川義礼

日本の政治家 (1863-1908) From Wikipedia, the free encyclopedia

德川 義禮(とくがわ よしあきら、文久3年9月19日(1863年10月31日) - 明治41年(1908年)5月17日[1])は、日本の華族、政治家。尾張徳川家第18代当主。貴族院侯爵議員。位階・勲等・爵位は正三位勲三等侯爵。新字体では徳川 義礼。

時代 江戸時代後期(幕末) - 明治時代
死没 明治31年(1908年)5月17日(44歳没)
改名 松平晨若(幼名)→徳川義礼
概要 凡例德川 義禮, 時代 ...
 
德川 義禮
徳川義礼
時代 江戸時代後期(幕末) - 明治時代
生誕 文久3年9月19日(1863年10月31日)
死没 明治31年(1908年)5月17日(44歳没)
改名 松平晨若(幼名)→徳川義礼
墓所 愛知県名古屋市の建中寺
主君 明治天皇
氏族 高松松平家→尾張徳川家
父母 父:松平頼聰
養父:徳川慶勝
兄弟 義礼、總子、頼親、頼寿、胖、永井直翠、岳子
妻 正室:徳川鴻子(徳川慶勝の四女)
継室:徳川良子(徳川慶勝の七女)
子 米子
養子:義親
テンプレートを表示
閉じる

経歴

旧讃岐高松藩主・松平頼聰の次男。幼名は晨若。明治9年(1876年)5月9日、旧尾張藩主・徳川慶勝の婿養子となり、明治13年(1880年)9月27日に尾張徳川家の家督を相続する。明治17年(1884年)7月7日、華族令制定にともない侯爵となる。同年9月からイギリスに留学、明治20年(1887年)10月に帰国する。留学によりキリスト教に惹かれるようになったようである。

帝国議会開設に伴い、明治23年(1890年)2月、貴族院侯爵議員となる[1]。明治24年(1891年)、芸妓に入れ込むようになったとされる義礼の不品行をめぐり、旧尾張藩士らが養子縁組解消を要求し、大きな騒動となったが、徳川家達ら徳川一門の仲裁によって取り静められる。神奈川県中郡大磯町の別荘跡地は、現在は大磯町立大磯中学校となっている。

明治41年(1908年)に徳川義親(松平春嶽の五男)を長女・米子の婿養子とし、同年に義礼が死去すると義親が家督を相続した。

栄典

家族

脚注

参考文献

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks