忍坂大中姫
日本の皇族。第19代天皇后。
From Wikipedia, the free encyclopedia
生涯
日本書紀允恭紀に、允恭天皇2年2月14日に立后され、名代部として刑部(おっさかべ)が設定されたとある。このとき設定された名代部の一つが火葦北国(ひのあしきたのくに。熊本県八代・葦北地方)であるとする説がある。当地から阿蘇ピンク石という石材が産出しており、河内平野の古墳の石棺にこの石材が用いられていることから、何らかの関係があるとする見方もある。
忍坂大中姫は、名にこそ践坂(忍坂)と大和の地名を負っているが、『日本書紀』の允恭二年紀によれば、はじめ母と共に家に在ったというから、息長地方にいたと考えられる。このことは、允恭紀七年条によれば、妹の弟姫が「随母以在於近江坂田」とあるので、一層明らかである(息長は後の坂田郡内にあった)[1]。
忍坂大中姫ら姉妹が允恭天皇の后妃となったことは、近江の地方豪族と天皇との婚姻の実例であり、景行天皇と美濃の地方豪族との結婚と比較して、はるかに信憑性の高い伝えである[1]。そして、5世紀における天皇家の通婚圏が近江をも含めるものであったことがわかる[1]。
皇后が未婚であった時代に、一人で苑で遊んでいると、傍の道を馬に乗った闘鶏国造が通りかかった。国造は「上手に庭を作れるのかね、お前」と嘲笑い、「さあ、戸母よ、そこの蘭を一本」などと無礼な発言をしたため、姫は「首よ、お前を忘れない」と言った。姫は後に皇后となると、無礼なはたらきをした国造を探しだして死罪にしようとしたが、国造が「私の罪は死に当たります。しかし、その時は貴いお方になられるとは知りませんでした」と弁解したため、皇后は死罪を赦して姓を稲置にしたとされる。
