Wikiwand AI

忠州の戦い

From Wikipedia, the free encyclopedia

忠州の戦い(ちゅうしゅうのたたかい、朝鮮語読み:忠州はチュンジュ)は、文禄元年(1592年)4月28日、忠州市付近の弾琴台(朝鮮語読み:タングムデ)で戦われた文禄・慶長の役初期の戦闘の一つである。具体的な戦場の地名を取って「弾琴台の戦い」とも言う。

概要 忠州の戦い, 交戦勢力 ...
忠州の戦い
戦争文禄・慶長の役
年月日:文禄元年(1592年)4月28日(旧暦)
場所:朝鮮、忠清道忠州市付近の弾琴台
結果:日本側の大勝
交戦勢力
豊臣政権 朝鮮国
指導者・指揮官
小西行長
宗義智
松浦鎮信
有馬晴信
大村喜前
五島純玄
申砬 (三道都巡察使)
金汝岉 (前義州牧使・副使)
李鎰(巡察使)
李宗張 (忠州牧使・助防将)
(慶尚左兵使)
邊璣 (助防将)
朴安民(従事官)
戦力
一番隊15,000人以下

右翼・松浦鎮信(3,000)
中央・小西行長(7,000)
左翼・宗義智(5,000)

忠州占領隊
有馬、大村、五島

8,000〜16,000人[1]
損害
不明 全滅


閉じる

背景

日本軍の侵攻と、釜山および東莱の陥落の知らせを受けると、朝鮮の宣祖の宮廷は遅れて将軍を任命し、漢城への進路における防御を強化する措置を取った。日本軍が漢城へ向かう際には山地を通る三つの経路のいずれかを通ると判断されていたため、中央(最も直接的な)ルートが最優先とされ、その防衛は李如松と申砬に任された。両将軍は北方の女真族との戦いで名声を得ていたが、軍籍が行方不明者や訓練不足の徴集兵で満たされていたため、人員不足に悩まされていた。申砬は内禁衛を自軍に編入する権限を与えられ、王から自ら剣を授けられた。[2]

申砬は忠州に約8000の兵力を集結させた。これらの兵の多くは、東莱、大邱など南部各地での日本軍との戦闘から逃れてきた兵であった。当初の計画では、地形を利用して数で優る日本軍に対抗するため、鳥嶺(チョリョン)峠を防衛拠点とする予定であった。しかし、鎧も馬も軍も失った状態で尚州の戦いから撤退してきた李如松の突然の出現により、この計画は変更を余儀なくされた。すでに日本軍の小西行長軍が峠に接近していたためである。申砬は漢江を背にした忠州の平野で日本軍を迎え撃つ決断をした。平野は騎兵に有利であったが、漢江によって退却は不可能となる地形であった。[2]

その一方で、加藤清正率いる約2万の日本軍第二軍は尚州の北に位置する聞慶で小西軍と合流した。聞慶は東路と中路が合流する地点であった。加藤は、小西が釜山での待機命令を無視して先行したことに激怒し、自軍に先陣を任せ漢城を攻略すべきだと主張したが、小西はこれを拒否した。両軍はともに鳥嶺峠を越えて忠州へ進軍したが、加藤は突如としてそこで野営を行うと宣言し、申砬の騎兵に小西軍が無謀に突撃して失敗することを期待し、自らの評価を高めようとした。[2]

概要

鳥嶺の放棄

4月26日、申砬は軍を率いて丹山駅に進んだ。諸将は当初より慶尚道と忠清道を隔てる鳥嶺(チョリョン/ジョリョン)で日本軍を防ぐべきだと主張した。しかし申砬は軍を残して自ら数騎を連れて偵察に赴き、鳥嶺で李鎰尚州の戦いで敗れたという報を受けて、落胆して帰還。忠州へ退くというので、金汝岉は「峰を越えがたい鳥嶺は東南第一の天険であり、これを固守して敵を防ぐべきだ」と諫め、忠州牧使李宗張もこれに賛同して後押ししたが、申砬は耳を貸さず「敵は歩兵で、我々は騎兵だ。この地形は騎兵を用いるに適しない。広野で迎撃して一戦すべきである」と言って後退を命令。鳥嶺を守る助防将邊璣や李鎰も召還を命令してこの要害を放棄させた。

同じ4月26日には咸昌と聞慶が日本軍に占領された。これより先は難道で、峠越えを前に、小西行長は、自ら町に火を放った聞慶県監(守令)申吉元を捕えて道案内をさせようと説得したが、拒否したので斬った。行長は相当に用心して要害姑母山城(ゴモサンソン)に接近して偵察を繰り返したが、伏兵などには遭遇せず、鳥嶺の他の山城も無人であることがわかった。27日午前4時、一番隊は聞慶を出発して山道を4時間かけて鳥嶺を通過して安保駅に到達。正午には丹山駅に至った。

申砬は従来ライバル関係にあった敗軍の将李鎰と面談したが、李鎰は「この敵は北虜[注釈 1]の制し易きとは比べ物にならない。今、天険に拠らず広野で戦おうとしているが勝算はない。むしろ退却して漢城を守るべきだ」と警告したが、申砬はただ激怒し、軍法に照らして斬首すべきだが敵と戦って罪を償えと言って戦列に加えた。李鎰は敗残兵や農民、避難民からの志願者などを糾合して6,000名の兵を従えていたようである。

弾琴台の戦い

4月27日の夕方、親しくしていた軍官が日本軍はすでに鳥嶺を越えたという情報を密かに知らせた。申砬はこれを聞くと突如として一人で城を遁走。行方不明となった。軍中は騒然としたが、彼は深夜に黙って帰還した。翌朝、軍官が妄言を放ったとしてこの人物を斬り、彼は日本軍はまだ尚州城を出ていないと朝廷に報告した。しかし実際には日本軍はすでに僅か十里先で野営していたのであった[3]

同じ4月28日の早朝、申砬は敵情を得ぬまま[4]忠州城を出て、北西の弾琴台に陣をしいた。ここは北は漢江に面し、西にはその支流達川があって、前面には水田が広がり背後は(河岸の)断崖絶壁で、新羅時代の土城跡のある小丘陵だった。所謂、背水の陣であり、逃げ場はなかった。

小西行長は斥候を派してこれを発見。軍を三つにわけて三方向より攻撃する作戦を立てた。行長の中央と松浦鎮信の右翼は、山沿いに東に進み、宗義智の左翼は達川を下るように北上。三方を包囲して一斉に銃撃を仕掛けた。

申砬は弓矢で応戦したが、数千挺の火縄銃による一斉射撃によって敵をなぎ倒すという日本軍の戦術を十分に把握していなかった。弓隊は混乱して敗走。申砬は劣勢を挽回しようと二度突撃を行ったが、いずれも撃退された。

申砬と数名の将校は馬に乗って戦場から脱出することに成功したが、大部分の兵は撤退しようとする過程で日本軍に討たれた。日本側の記録によれば、朝鮮軍の戦死者は3,000名、さらに数百名が捕虜となったとされる。通常、戦死者の首は戦功の証として戦利品とされたが、この戦いではその数があまりに多かったため、代わりに「証拠」として鼻のみを切り取る慣行が行われ、これは兵士が褒賞を申請する際に必要とされた。日本軍はほとんど損害を受けることなく忠州を占領した。申砬は敗北の責任を取るため、忠州から少し離れた泉に身を投げて自ら命を絶った[2]

その後

戦いの後、加藤清正と鍋島直茂の軍は小西行長の軍と合流した。加藤は小西の戦果にさらに不満を募らせ、漢城への最終攻撃の指揮権をめぐって一触即発の状態となった。小西は加藤に対し、都へ向かう道が二つあると説明した。北西に向かう直線ルートは最短であったが、最も広い漢江を渡る必要があった。一方、北へ進みその後西へ向かう迂回ルートは距離は長いが、上流で漢江を渡るため川幅が狭かった。どちらの経路を取るかくじ引きで決めることを提案したが、加藤は直線ルートを強く要求した。両将軍は互いに優位を取られないよう同じ夜に出発した[2]

忠州での敗北の報は6月7日に宣祖に届けられ、宮廷には広範な混乱が生じた。多くの者が持てる限りの財産を持って都を離れ、護衛の大半も逃走した。多くの官僚が漢城に留まるよう進言したが、首相・李山海は危機時に王が遷都した前例を挙げてこれを退けた。[2] 宣祖は都の守備を大将・金命元に任命し、漢城防衛の総指揮を命じた。その後、王は日本軍の接近に伴い平壌へ退避した。さらにその後、平壌陥落直前に国境都市・義州へと移動した。王が不在の間、政府に絶望した一部の人々が宮殿を略奪し公共施設を焼き払ったため、日本軍による占領以上の被害が発生した[5][6]

6月8日、加藤軍の先鋒は漢江に到達したが、南岸の船はすべて破壊されていた。これは朝鮮軍によるものか、あるいは小西軍が進軍妨害のために事前に破壊したものであった。北岸では金命元が50名の将校と1000名の兵を配置して加藤軍の渡河に備えていた。しかし加藤は船がないことをものともせず、木を伐採して筏を作らせ、6月11日に現在の龍山区付近で漢江を渡河した。兵力差が圧倒的であること、さらに日本軍の火縄銃射撃に動揺した金命元は、軍を放棄して民間人に紛れて逃走した。その結果、加藤軍は抵抗を受けることなく渡河に成功した。6月12日には南大門に到達したが、小西の旗がすでにその屋根に掲げられていた。小西軍は加藤軍より先行し、数時間前に東大門から入城していたのである。6月16日には黒田長政軍と、備前国の宇喜多秀家率いる1万の軍が到着した。豊臣秀吉の158,000の侵攻軍の残りの5軍はすでに釜山周辺に到達していた[2]

評価

申砬が取った戦略と戦術について、弁護する韓国人歴史家もいるが、当時から今まで多くの将軍や軍人、歴史家によって最悪のものと評されてきた。特に鳥嶺の放棄については、後に参戦してこの地形を見た明将李如松が「申総兵[注釈 2]無謀の漢なり」と嘆息して酷評したことで知られる[7]。西路を進む三番隊があったので鳥嶺を守るだけで日本軍の進撃が押し留められたわけではないが、一番隊と二番隊は共に鳥嶺を越えて忠清道に侵入しており、朝鮮軍がここで防戦すら行わなかったことが、日本軍がわずか20日という恐るべき速さで漢城府を陥れた最大の要因であった。

脚注

参考文献

  • Alagappa, Muthiah (2003), Asian Security Order: Instrumental and Normative Features, Stanford University Press, ISBN 978-0-8047-4629-8
  • Arano, Yasunori (2005), The Formation of a Japanocentric World Order, International Journal of Asian Studies
  • Brown, Delmer M. (May 1948), “The Impact of Firearms on Japanese Warfare, 1543–1598”, The Far Eastern Quarterly 7 (3): 236–53, doi:10.2307/2048846, JSTOR 2048846, https://www.jstor.org/stable/2048846
  • Eikenberry, Karl W. (1988), “The Imjin War”, Military Review 68 (2): 74–82
  • Haboush, JaHyun Kim (2016), The Great East Asian War and the Birth of the Korean Nation
  • Hawley, Samuel (2005), The Imjin War, The Royal Asiatic Society, Korea Branch/UC Berkeley Press, ISBN 978-89-954424-2-5
  • Kim, Ki-chung (Fall 1999), “Resistance, Abduction, and Survival: The Documentary Literature of the Imjin War (1592–8)”, Korean Culture 20 (3): 20–29
  • Rockstein, Edward D. (1993), Strategic And Operational Aspects of Japan's Invasions of Korea 1592–1598 1993-6-18, Naval War College
  • Sansom, George (1961), A History of Japan 1334–1615, Stanford University Press, ISBN 978-0-8047-0525-7
  • Stramigioli, Giuliana (December 1954), “Hideyoshi's Expansionist Policy on the Asiatic Mainland”, Transactions of the Asiatic Society of Japan, Third Series 3: 74–116
  • Swope, Kenneth M. (2005), “Crouching Tigers, Secret Weapons: Military Technology Employed During the Sino-Japanese-Korean War, 1592–1598”, The Journal of Military History 69: 11–42, doi:10.1353/jmh.2005.0059
  • Swope, Kenneth M. (2009), A Dragon's Head and a Serpent's Tail: Ming China and the First Great East Asian War, 1592–1598, University of Oklahoma Press
  • Turnbull, Stephen (2002), Samurai Invasion: Japan's Korean War 1592–98, Cassell & Co, ISBN 978-0-304-35948-6, https://archive.org/details/samuraiinvasionj0000turn
  • Turnbull, Stephen (2008), The Samurai Invasion of Korea 1592-98, Osprey Publishing Ltd

関連項目

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks