武義成功可汗の子として生まれる。
貞元5年(789年)12月、汨咄禄長寿天親毘伽可汗[2](武義成功可汗)が薨去したため、子の多邏斯(タラス)が立ち、国人たちは彼を「泮官特勤」[3]と号した。唐は3日間廃朝し、鴻臚卿の郭鋒に節を持たせて弔問させるとともに、多邏斯を冊立して愛登里羅汨没蜜施倶録毘伽忠貞可汗[4]の称号を授けた。
貞元6年(790年)4月、忠貞可汗は少可敦の葉公主に毒殺され、忠貞可汗の弟が簒立して可汗となった。しかし、まもなく彼らも国人たちに殺され、忠貞可汗の幼子である阿啜(アチュル?)が立てられ、可汗となった。