恩津郡
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1418年、太宗の時、徳恩県を地域の人々の要請に応じて恩津と改めて呼んだ。世宗実録と輿地図によると、15世紀5百6戸に人口が1千717人だったが、18世紀には4千811戸に1万7,920人に増加した。恩津は公州の中でも公州の次に大きな人口と経済規模を持っていた。
19世紀の恩津県江景は浦口に近い大都会と認識され、全国15大市場に成長した。林園経済志によると、恩津江景市場は忠清道の他の地域に比べて米、豆、魚、塩をはじめ、綿布、鉄物、タバコに至るまで様々な種類の物品が取引されていた。
他にも恩津は世祖のとき、左議政鄭昌遜をはじめとする権力者の農場があり、朝鮮後期にも忠勲府をはじめとする権力衙門と宮廷所有の土地があった。
1895年23府制施行で全国の県が郡に統一され、恩津郡となり、1914年魯城郡、連山郡、石城郡の一部とともに論山郡に統合され、1917年には大鳥谷面が恩津面に改称したあとその地名は残っている。
経済
恩津県は恩津と江景浦の市場税の一部を王族が奪ったことが問題になるほど、商業が盛んな地域だった。特に恩津江景浦は19世紀の大きな都市として注目され、江景を経てソウルに輸送される租税輸送にとっても重要な地域だった。18世紀恩津江景浦を経て上納される忠清道各邑の田税穀を調べると、公州3,599石、定山579石、石城524石、連山1,068石、伊山931石、恩津1,310石であった。合計は8,011石で、これは忠清道上納田税穀の全体28,938石の27.7%に達した。
論山は水路を利用して江景に進むことができた。恩津県には3つの場所に市場があったが、恩津官衙(現在恩津小学校)の前、論山浦付近、金浦面恩津税倉の隣(江景浦)だった。時には江景浦と論山浦が競争を見せたが、例えば1799年に洪水で論山港の水深が深まると江景までしか入っていない商船が論山に集まった。すると、江景の商人たちは自分たちが元々船舶に対して主人権を持って国家に一定の税を捧げていたと商権を主張した。これに対し、論山の商人は船のどこにでも出入りできるものだと反論した。