恩荷
From Wikipedia, the free encyclopedia
恩荷は『日本書紀』斉明天皇4年(658年)4月条の阿倍比羅夫の北航の記事中にだけ現れる。この月に阿倍比羅夫は、180隻の船団を率いて本州日本海岸を北上した。齶田と渟代の二郡の蝦夷はこれを眺めて怖れ、降った。比羅夫の軍が齶田の浦に船を連ねると、齶田の蝦夷恩荷が、「自分たちは官軍と戦うために弓矢を持っているのではない。肉を食べるためである。もし官軍のためであれば、齶田の浦の神が知るだろう」云々と朝廷に服従を誓った。比羅夫は恩荷に小乙上を授けた。比羅夫はさらに北上し、渟代と津軽の郡領を定め、有間浜に渡島蝦夷を集めて大いに饗応して帰った。
齶田(あぎた)は秋田の初見とされ、翌年の記事では飽田と書かれる。渟代は後の能代である。恩荷には近くの地名男鹿(おが)との類似が指摘される。古く男の「お」は「を(wo)」であって恩の「お(o)」とは異なるので、類似であって同一ではない[1]。恩荷の読みは「おが」とすることが多いが、「おんが」とするものもある[2]。
日本書紀は、当時の評(こおり)を郡(こおり)と字を改めて書くことで一貫しており、郡領は正しくは評造または評督であろう[3]。この年7月には都に蝦夷が来て位を授けられており、渟代郡大領の沙尼具那が小乙下、津軽郡大領馬武が大乙上とある。これに従うなら、齶田は渟代より上、津軽より下という位置づけであり、さらに言えば、都岐沙羅柵や渟足柵の柵造より馬武と恩荷の位は高かった。