恵嬪楊氏
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父は南平(現・全羅南道羅州市南平邑)の県監を務めた楊景(ヤン・ギョン)である。楊氏は女官として入宮し、病に臥せていた王世子珦(後の文宗)の世話をしていた所が世宗の目に止まり、寵愛を受けると同時に後宮となった。 1445年の世宗記録で父の楊景が左賛成を追贈された記録で楊氏は当時、従一品の貴人に封じられていたとされる[1]。世宗との間に漢南君、寿春君、永豊君等3男を儲けた。
世宗23年(1441年)に王世子珦の妃であった世子嬪権氏が早世すると、世宗から敬恵公主と端宗の養育を任された。母親の愛情を知らない端宗を溺愛し、端宗も楊氏を母の様に慕った。世宗崩御後、楊氏は尼となる。
文宗が在位2年で崩御すると宮廷に戻る。宮廷には有力後宮が不在だった為、楊氏が端宗の政務補佐を行い、文宗の後宮貴人洪氏と共に内命婦を取り仕切った。しかし、首陽大君の謀略で楊氏の影響力抑制を目的に貴人洪氏が正一品粛嬪に昇格すると、恵嬪は政務補佐の役目を洪氏に奪われた[2]。楊氏は首陽大君に対して激しい憎悪を抱いたとされる。1453年に宮廷クーデタ(癸酉靖難)が発生した際、世祖によって、楊氏は謀反の疑いで息子達と共に庶人の身分へ降格。宮廷を追われ、清風(現・忠清北道提川市清風面)に配流された[3]。楊氏及び息子達の財産も没収される[4]。
世祖元年(1455年)12月17日、臣下の上訴が高まると義禁府によって、楊氏は絞首刑に処された[5]。
賜死から250年後の1712年、第19代国王粛宗の時代になって、楊氏は文恵大嬪の称号を与えられて身分を回復する[6]。正祖15年(1791年)、第22代国王正祖の生母である恵慶宮洪氏の以前の称号が同じ恵嬪であった事から、正祖は楊氏の称号を慜貞嬪に改め、清州に祠を作り丁重に祭祀を行う様に命じた[7]。