怨霊となり、世祖の長男・懿敬世子(徳宗)に憑りつき、死に至らしめたとされる。
なお、世祖は1453年に癸酉靖難を起こして端宗を補佐する大臣らを除いて政権を掌握し、1455年には端宗に退位を強要している。
しかし、これは事実と全く合わないといえる。懿敬世子が死亡したのは1457年9月2日であるのに対し、顕徳王后の子の端宗が死亡したのはその約1ヶ月半後の10月24日である。懿敬世子が端宗よりも先に死亡しているため、顕徳王后の呪いで懿敬世子が死ぬという解釈は適切ではない。
顕徳王后の母、阿只と王后の弟、権自慎は成三問などとともに端宗復位運動をして1456年に処刑されて、端宗は1457年旧暦6月21日に魯山君に降格される。
一方もう死亡した顕徳王后とその父権専は、阿只と権自慎の罪によって連座刑が下され、権専は1456年旧暦7月7日、顕徳王后は1457年6月26日にそれぞれ廃庶人になった。
成宗の時に顕徳王后を顕徳嬪に復位したが王妃としての復位は、顕徳王后の連座制適用が適当ではないという意見が上って来た以後合意を経て1513年3月12日に中宗が顕徳王后を、1699年7月15日に粛宗が権専の名誉回復をする。