閑院宮家の光格天皇と中御門天皇の唯一の玄孫欣子内親王の間の第2皇子として文化13年(1816年)に生まれた。もともと皇太子であった兄の温仁親王が夭逝したこともあり、温仁親王を除き中御門天皇の血を引く唯一の男子だった。文政4年(1821年)2月9日に親王宣下が行われたが、2日後の2月11日に夭逝した。
当時、中御門天皇の曾孫である後桃園天皇が皇子を残さず崩御したことにより、中御門天皇系の皇統が廃絶してしまった。それにより、新帝を誰にするかの会議が開かれた。その会議では「男系男子は守りつつ、中御門天皇の血も引かせる」ということが重視され、新帝と欣子内親王を結婚させるという想定がなされた。そこで、候補者の中で未婚である中御門天皇の弟の閑院宮直仁親王の孫、師仁王を光格天皇として践祚させ、光格天皇と後桃園天皇の皇女である欣子内親王を結婚させ、その子を皇太子とするという決議が決まった。しかし第1子である温仁親王は2年に満たず、第2子の悦仁親王は5年で夭逝したため皇位を継ぐことはなかった。その後、皇位は異母兄の恵仁親王(のちの仁孝天皇)が継いだ[2]。