惲宝恵

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出生: 1885年光緒11年)[1][2]
死去: 1978年[1]
職業: 官僚・政治家
惲宝恵
プロフィール
出生: 1885年光緒11年)[1][2]
死去: 1978年[1]
出身地: 清の旗 江蘇省常州府陽湖県[1][注 1]
職業: 官僚・政治家
各種表記
繁体字 惲寶惠
簡体字 恽宝惠
拼音 Yùn Bǎohuì
ラテン字 Yün Pao-hui
和名表記: うん ほうけい
発音転記: ユン・パオフイ(ユン・バオフイ)
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惲 宝恵(うん ほうけい、1885年光緒11〉 - 1978年)は、中華民国中華人民共和国の官僚・歴史学者。字は恭孚[1][3]公孚[2]訥葊[1][2]清末民初は官僚として活動し、国務院秘書長などに任命された。後に中華民国臨時政府や南京国民政府(汪兆銘政権華北政務委員会にも出仕した。中華人民共和国では『清史稿』の校勘作業に取り組んでいる。父は清末の進士で憲政研究所総弁の惲毓鼎。

初期の活動

幼いころは父母から学問を学び、恩蔭により清朝に出仕した。清朝では兵部主事、陸軍部郎中、陸軍部大臣行営秘書長、禁衛軍秘書処処長を歴任している[1][注 2]

中華民国成立後は北京政府に出仕し、1914年民国3年)9月、政事堂道尹に任命された。1917年(民国6年)12月、国務院秘書長に抜擢されたが、僅か4か月で退任している。1920年(民国9年)、賑務処坐弁籌募賑災公債処総弁に起用された。その後は防災委員会副会長、内務部振務処坐弁、籌弁京城貧民生計事宜、京都市政事宜会弁、正紅旗蒙古都統、海関付加税保管委員会秘書長、蒙蔵院副総裁と歴任している[4]

親日政権での活動

1937年(民国26年)12月14日、王克敏中華民国臨時政府を創立すると、惲宝恵もこれに直ちに参加した。当初の惲は北京特別市市長・江朝宗の配下となり、北京特別市公署財政局局長に任命されていた。ところが、王克敏と江朝宗が激しく対立して、翌1938年(民国27年)1月に江は市長から辞任してしまう。これにより惲も市財政局局長の地位から退いたが[5]、同年4月、実業部(総長:王蔭泰)で秘書として任命された[6]

1940年(民国29年)3月30日、臨時政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流し、華北政務委員会に改組される。惲宝恵は、実業部を改組した実業総署で秘書代理に重任となった[7][注 3]。翌1941年(民国30年)2月、実業総署合作局局長代理を暫時兼任し[8]、11月には実業総署参事代理も兼任した[9]。なお合作局局長代理については、「暫時兼任」とはいいながらも、万兆芝が後任となる1943年(民国32年)3月まで2年余りも在任していたと見られる。1943年11月、華北政務委員会の大規模な機構改革に伴い、惲は農務総署(督弁:王蔭泰)に移って参事代理に任命された[10]1944年(民国33年)12月、農務総署参事代理を退任し[11]、政界から引退したと見られる。

晩年

汪兆銘政権崩壊後、惲宝恵は漢奸としての摘発を受けなかった模様である。郷里の常州に戻り、『惲氏家乗』の編纂を主導した。また、惲氏の先祖の業績を調査し、『惲氏先世著述考略』を『家乗』の附録としている[1][2]

中華人民共和国建国後の1954年、惲宝恵は中国人民政治協商会議全国委員会文史資料研究委員会の要請に応じ、北京で文史専員となった。また、中華書局からの招聘にも応じ、古典籍や『清史稿』の校勘作業に従事した。1962年長春市の清史研究所で講義を担当している。文化大革命に際して糾弾の対象となったものの、四人組失脚後は復権し、北京の中国人民大学清史研究所で特約研究員となった[1][2]

1978年、死去。享年94[1][2]

著作

  • 袁世凱之再起与呉禄貞之死』
  • 『関于袁世凱的訂正』
  • 『談袁克定
  • 『清慈禧太后簒窃政権之経過』
  • 『清末貴族之明争暗闘』
  • 『関于慈禧太后“垂帘听政”之因果』
  • 『清末貴族之生活』
  • 『晩清宮廷生活見聞』
  • 『関于醇親王府生活的訂正』
  • 『辛亥馮国璋接領禁衛軍後的活動』
  • 『筠心館雑記』他多数

脚注

参考文献

外部リンク

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