愛新覚羅允トウ
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生涯
家族
妻妾
ダ・フジン(嫡福晋)
ジャイ・フジン(側福晋)
- ファンギャ氏(方佳氏) - 四品典衛の方文彬の娘。履親王の唯一の子・弘昆を生む。
- 管佳氏 - 管有倉の娘。
ブヤ・フジン(庶福晋)
- ワンギャ氏(王佳氏) - 王徳政の娘。
- リギャ氏(李佳氏) - 軽車都尉チェルテ(車爾特)の娘。康熙45年の『玉牒』の記載によれば、第十二子の胤祹にはすでに子をもうけた侍妾リギャ氏がいた。
- 邁氏 - 員外郎ギュゲ(gioge、九格)の娘。
- 陳氏 - 陳大麻の娘。
媵妾
- 李氏 - 李大の娘。
侍妾
- 姚氏 - 管領マセ(瑪色)の娘。康熙45年の『玉牒』の記載によれば、第十二子・胤祹にはすでに子をもうけた侍妾・姚氏がいた。
子女
- 第一子(名なし) - 康熙42年(1703年)癸未2月8日卯刻に生まれる。母は妾・姚氏。出生の月14日戌刻に死去。
- 第一女:郡主 ― 康熙42年癸未10月22日巳刻に生まれる。母はブヤ・フジン(庶福晋)のリギャ氏(李佳氏)。康熙60年(1721年)辛丑5月にホルチン(|科爾沁)のボルジギト氏(博爾済吉特氏)タイジ・ダルマ・ダドゥ(台吉達爾瑪達都)に嫁ぐ。乾隆32年(1767年)丁亥2月20日未刻に死去、享年65歳。
- 第二子(名なし) - 康熙45年(1706年)丙戌6月26日寅刻に生まれる。母はダ・フジン(嫡福晋)のフチャ氏(富察氏)。康熙46年(1707年)丁亥4月14日戌刻に死去、享年2歳。
- 第三子:弘是 - 康熙46年丁亥7月5日午刻に生まれる。母はダ・フジンのフチャ氏。康熙49年(1710年)庚寅8月20日酉刻に死去、享年4歳。
- 第二女(名なし) - 雍正元年(1723年)癸卯6月7日未刻に生まれる。母は媵妾・李氏。出生の月に死去。
- 第三女(名なし) - 雍正6年(1728年)戊申正月13日寅刻に生まれる。母はジャイ・フジン(側福晋)管氏。出生時に死去。
- 第四子(名なし) - 雍正6年戊申12月22日に生まれる。母はファンギャ氏(方佳氏)。雍正9年(1731年)辛亥3月24日辰刻に死去、享年4歳。
- 第四女:郡主 - 乾隆元年(1736年)丙辰7月15日申刻に生まれる。母はファンギャ氏。乾隆18年(1753年)癸酉正月に明亮(フチャ氏)に嫁ぐ。道光5年(1825年)乙酉4月1日未刻に死去、享年90歳。
- 第五子(世子):弘昆 - 乾隆4年(1739年)己未9月25日卯刻に生まれる。母はファンギャ氏。乾隆15年(1750年)庚午3月20日寅刻に死去、享年12歳。弘昆は常に定太妃の寵愛を受けており、乾隆帝の勅命により、葬礼はすべて世子の礼に従って行われた。
- 第五女:郷君 - 乾隆5年(1740年)庚申正月21日亥刻に生まれる。母はブヤ・フジン(庶福晋)のワンギャ氏(王佳氏)。乾隆21年(1756年)丙子2月にボルジギト氏のグンチラヒ(袞斉拉喜)に嫁ぐ。嘉慶2年(1797年)丁巳2月10日に死去、享年57歳。
- 第六女(名なし) - 乾隆6年(1741年)辛酉6月14日卯刻に生まれる。母はファンギャ氏。乾隆8年(1743年)癸亥12月3日亥刻に死去、享年3歳。
- 第六子(名なし) - 乾隆7年(1742年)壬戌4月29日未刻に生まれる。母はファンギャ氏。出生の月30日丑刻に死去。
府邸旧址
允祹の府邸は、東直門北小街の針線胡同にあり、誠貝勒允祁の府邸と隣接していた。府邸の正門は5間、正殿は7間、東西の配楼はそれぞれ5間、後殿3間、後寝殿5間、後罩房5間から成っていた。光緒年間、隣接する東正教堂が義和団によって破壊されたため、ロシア軍の報復に遭い、王府は焼失した。その後、履王家は隆福寺西口の馬市大街に移り住み、これが「植公府」と呼ばれるようになった。
登場作品
- テレビドラマ
- 瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜(2018年、中国、演:公方敏)
脚注
参考文献
- 『清史稿』220巻
- 『清皇室四譜』