多羅敏達貝勒・毓朗は、定慎郡王・溥煦の次子であり、同治3年(1864年)7月26日未の刻に生まれた。母は六品典衛慶雲の娘である側福晋鄂佳氏。
光緒2年(1876年)12月、花翎(二品の頂戴)を賜る。
光緒12年(1886年)12月、三等鎮国将軍に封ぜられる。
光緒28年(1902年)7月、鴻臚寺少卿に任命される。
光緒30年(1904年)9月、光禄寺卿に任命される。
光緒31年(1905年)3月、内閣学士兼礼部侍郎の官職を授けられ、同年9月、巡警部左侍郎に任命される。
光緒33年(1907年)12月、多羅貝勒を襲封する。
光緒34年(1908年)11月、上諭を奉じて「朕、大統を承け、登極の礼を成すにあたり、すでに皇太后の徽号を恭しく奉り、盛典は規模にかなった。恩沢を広く施すため、多羅貝勒毓朗に双俸を与え、さらに禁衛軍訓練を専司する大臣に任ずる」と命じられる。翌12月、この職務に正式に任ぜられる。
宣統元年(1909年)9月、貝勒爵章を下賜される。
民国元年(1912年)9月、懿旨を奉じ、「従前に恩賞を受けた王公等の邸宅・部屋・土地は、すべて恩恵を加えて私産として与える」とされた。
民国2年(1913年)12月、宗人府右宗人を署理する。
民国4年(1915年)正月、勅命により「宗人府をはじめ各衙門の文武官が勤勉に職務を果たしているので、みな一階級加増せよ」とされ、同月、宗人府右宗人に任命される。2月には宗人府左宗人を署理し、12月には宗人府右宗正に任じられる。
民国6年(1917年)正月、宗人府左宗正に任じられる。
民国10年(1921年)2月、勅命を奉じ、「時局困難にして財力乏しく、繁雑を削除して実を期すべし」との旨により、かつて王大臣を派遣し内務府各衙門の状況を視察させ、経費削減のために統合・裁減を計画したことを踏まえ、さらに整理を命じられた。そのため、那彦図・載澤・溥倫・載潤・載濤・毓朗・載瀛・世続・陳宝琛・伊克坦・朱益藩・紹英・耆齢らが精心して協議し、折に触れて奏上するよう命じられた。
民国11年(1922年)閏5月、勅命を奉じ、玉牒の編纂が完成し、迅速にして妥当に仕上げられたことを称え、宗令らに賞与を加えるよう命じられた。さらに恩賞として、載涛の子・溥伸に頭品頂戴を授け、載潤・毓朗・載瀛には四行龍補服の着用を許した。同年10月26日、毓朗は薨逝、享年59歳。諡号は「敏達」とされた[1]。