慕容延釗
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襄州馬歩軍都校の慕容章の子として生まれた。はじめ後漢の枢密使の郭威(後の後周の太祖)に仕えた。顕徳元年(954年)、後周の世宗が即位すると、殿前散指揮都校に転じた。その年に高平の戦いでは趙匡胤・石守信とともに北漢軍を撃破し、侍衛親軍馬軍都指揮使となった[1]。
建隆元年(960年)、陳橋の変に趙匡胤の即位を強く支持。宋が建国されると、殿前都指揮使に任じられ、まもなく帰徳軍節度使として出向し、中書令を加えられた[1]。
建隆2年(961年)、杯酒釈兵権で石守信らと並んで酒宴に招かれ、翌日ただちに病と称して兵権を返上した。その年に山南東道節度使に任じられた。雍熙3年(986年)に洛陽で病没した。享年は78。太宗は「忠純旧臣」と悼み、侍中の位を追贈された[1][2]。