慕容渉帰
From Wikipedia, the free encyclopedia
慕容木延の死後、その後を継いで慕容部の大人となった。
経緯は不明であるが、同じ鮮卑族である宇文部とは対立し合っていたという。
西晋朝廷は、慕容部が代々中華王朝に従属して度々功績を挙げており、また本拠地としていた遼西の柳城(現在の遼寧省朝陽市双塔区・竜城区)をよく治めていた事から、功績として慕容渉帰を鮮卑大単于[4]に任じた。
後に柳城から遼東の北へ根拠地を移すと、徐々に鮮卑人としての風俗を漢人風に改めていったという。
太康2年(281年)10月、西晋への従属を拒んで離反すると、昌黎郡へ侵略するようになった[5]。
同年11月、西晋の平州刺史鮮于嬰が率いる討伐軍に打ち破られた[6]。
太康3年(282年)3月、西晋の安北将軍厳詢もまた討伐軍を率いて昌黎へ到来すると、慕容渉帰はこれに敗れて1万人余りの兵を失った[5]。
彼の長男は慕容吐谷渾といったが、彼は庶子であり、嫡男は弟の慕容廆であった。そのため、本来庶子である慕容吐谷渾にはその部衆を受け継ぐ資格は無かったが、慕容渉帰は彼の事を慮って、生前のうちに1700戸[7]を分け与えてやったという。
太康4年(283年)12月、慕容渉帰はこの世を去った。本来は慕容廆が大人位を継ぐはずであったが、弟の慕容耐が簒奪して位を継いだ。