戸塚文子

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死没 (1997-11-07) 1997年11月7日(84歳没)
国籍 日本の旗 日本
戸塚 文子
(とつか あやこ)
『公共建築』第22号(1963年)より
生誕 (1913-03-25) 1913年3月25日
大日本帝国の旗 日本 東京府東京市日本橋区浜町(現・東京都中央区日本橋浜町
死没 (1997-11-07) 1997年11月7日(84歳没)
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 日本女子大学校
活動期間 1942年 - 1983年
代表作 『旅は風のように』『旅は悠々』『ドライ・ママ』他
主な受賞歴 日本旅行作家協会賞(1983年)
勲四等宝冠章(1984年)
デビュー作 『旅の眼旅の耳』
配偶者
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戸塚 文子(とつか あやこ、1913年大正2年〉3月25日 - 1997年平成9年〉11月7日)は、日本紀行文作家編集者1983年(昭和58年)に第1回日本旅行作家協会賞を受賞した。

アサヒグラフ』1952年4月23日号より

東京府(後の東京都日本橋浜町生まれ[1]。父の仕事の関係で、5歳の頃から小学4年までを横浜市神奈川区で過ごし、日本国外への憧れを抱いて育った後に、東京への転居を経て兵庫県神戸市に移った[1]

1934年(昭和9年)に日本女子大学英文科卒業後、女性として初めてジャパン・ツーリスト・ビューロー(JTB)に入社した。東京駅案内所の案内係を経て、同社発行の雑誌『』編集部に移り、世界各国の数々の旅行情報を読者へ紹介した[1]

1948年(昭和23年)に女性初の編集長となり、多くの企画の成功により旅行ブームのきっかけとなった。1957年(昭和32年)には松本清張の『点と線』を『旅』に掲載し[2]、推理小説ブームのきっかけを作った[3]。この当時、独身で美貌のキャリア・ウーマンの元祖と注目された[3]

1961年(昭和36年)に退社して、フリーとなった。翌1962年(昭和37年)、母を描いた『ドライ・ママ』は反響を呼び[1]テレビドラマ化もされた[4]。その後は年の3分の2を国内外へ旅行する生活を送り、旅行随筆を執筆し[1]、戦後の女性の社会進出の草分け的存在となった[5]

1967年(昭和42年)4月に行われた東京都知事選挙では、美濃部亮吉の推薦人に名を連ねた[6]

1971年(昭和46年)4月に行われた東京都知事選挙でも美濃部を応援。選挙公報に記された支持者一覧に名を連ねた[7]

晩年には、視力が悪いことや家事が苦手なことから、1982年(昭和57年)に老人ホームに入居し、独身高齢女性の老人ホーム入居の流行の先駆けとなった[1]1983年(昭和58年)に第1回日本旅行作家協会賞を受賞、翌1984年(昭和59年)に勲四等宝冠章を受章した[5]

1997年(平成9年)11月7日、老衰のため84歳で死去。生涯独身だった。墓碑は東京都小平市の墓地にある[1]

著書

脚注

外部リンク

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