扈載
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若くして学問を好み、文章を作るのを得意とした、賦・頌・碑賛が最も優れていた。後周の広順2年(952年)、進士に及第し、校書郎に任じられ、史館に宿直した。二度異動して監察御史となった。扈載は開封府の大相国寺を観光し、庭の竹を見て愛で、「碧鮮賦」を作ってその壁に書きつけた。世宗柴栄はこのことを聞いて、宦官を派遣してその壁の賦を記録させ、そのできばえを見て称賛した。このため扈載は水部員外郎・知制誥に任じられ、翰林学士に転じた。扈載はすでに病にかかっていたが、辞退することができず、100日あまりにわたって、病身を押して学士院に宿直した。世宗はかれを憐れんで、邸に帰らせ、太医を派遣して病を看させた。顕徳4年(957年)、扈載は死去した。享年は36[2][1]。