手這坂の戦い

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手這坂の戦い(てばいざかのたたかい)とは小田氏治と、太田資正梶原政景真壁久幹らとの戦いである。

手這坂の戦い
戦争戦国時代
年月日永禄12年(1569年
場所常陸国北之郡(現在の茨城県石岡市
結果:佐竹方の勝利、小田氏による小田城の喪失
交戦勢力
佐竹氏
東方之衆
小田氏
指導者・指揮官
太田資正
梶原政景
大掾貞国
真壁久幹
小田氏治
岡見治資 
岡見義綱 

永禄7年(1564年)の山王堂の戦いで小田城を喪失していた小田氏治は翌年の永禄8年(1565年)12月、佐竹義昭の死去による混乱を衝き小田城を奪還した。しかし氏治は翌永禄9年(1566年)2月に上杉輝虎の侵攻を受け、小田城の破却(防御施設の撤回)を条件に降伏するに至った。この時、従来小田氏が支配していた、北之郡一帯が佐竹氏の勢力圏に入っている[1]

一方の大田資正は(永禄7年)1564年の岩付城の戦いで、後北条氏と結ぶ我が子、嫡男の太田氏資岩付城を追われ、次男梶原政景とともに佐竹義重のもとに落ち延びていたのであった。義重は永禄9年に上杉方から北条方へ離反したした小田氏への対策として同年6月、片野城を資正・政景親子、柿岡城を政景の義父にあたる真壁久幹に与えた[2]

永禄12年(1569年)正月、佐竹義重は大掾氏、真壁氏、太田氏を動員し海老ケ島城を攻撃、城主平塚刑部大輔を降伏させた。さらに佐竹勢は小田城まで攻め寄せ、城下を焼き払った。同年5月、佐竹氏は再度小田へ侵攻するも、氏治はこれを撃退することに成功している[2]

経過

旧領回復をはかる氏治は、永禄12年(1569年)11月23日に、資正がこもる片野城を攻め取らんと小田城から出陣。これに対し、資正と政景親子は佐竹氏方の真壁久幹らの加勢を得て、筑波山東の手這坂で、小田軍を迎撃した。この戦いで小田一門の岡見治資岡見義綱が討ち死にし、小田軍は総崩れとなり、太田軍の勝利となった。

結果

合戦の影響

脚注

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