拡張された心
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| Extended Mind Thesis | |
|---|---|
| 心は脳や身体の内部に限定されず、外部環境へと拡張するという哲学的テーゼ | |
| 基本情報 | |
| 提唱者 | アンディ・クラーク、デイヴィッド・チャーマーズ |
| 提唱年 | 1998年 |
| 原著論文 | "The Extended Mind"(Analysis誌、第58巻第1号、pp. 7–19) |
| 分野 | 心の哲学、認知科学 |
| 関連概念 | 能動的外在主義(Active Externalism)、分散認知、身体化認知、埋め込まれた認知 |
拡張された心(かくちょうされたこころ、英語: Extended Mind Thesis、略称:EMT)とは、心の哲学における立場のひとつであり、心は脳や身体の内部にのみ存在するのではなく、物理的な外部世界へと拡張しうるという主張である。この論題は、アンディ・クラーク (認知哲学者)(Andy Clark)とデイヴィッド・チャーマーズ(David Chalmers)が1998年に発表した論文「The Extended Mind」において提唱された[1]。
クラークとチャーマーズは、この立場を「能動的外在主義(active externalism)」と呼んだ。これは、認知プロセスを駆動するうえで環境が果たす能動的な役割に基づくものであり、意味論的外在主義とは区別される。外部環境に存在する物体(手書きのメモ、日記、パーソナルコンピューターなど)が認知プロセスの一部として機能しうる場合、それらは心の拡張として見なされる。この仮説は、心が物理的レベルを含むすべての認知の水準を包摂するものと捉える。
個人のアイデンティティや自己の哲学という観点からは、拡張された心テーゼは、個人のアイデンティティの一部が外部環境によって規定されうるという含意を持つ。
クラークとチャーマーズは論文の冒頭で、「心はどこで終わり、残りの世界はどこで始まるのか?」という問いを立てる。この問いに対する従来の答えは二つある。一方は、皮膚と頭蓋骨という直観的な境界を受け入れ、身体の外にあるものは心の外にあると主張する立場であり、もう一方は、意味論的外在主義から心の外在主義を導く立場である。クラークとチャーマーズはこれらに代わる第三の立場として、能動的外在主義を提唱した[2]。
外部オブジェクトが認知システムの一部として分類される主要な基準として、クラークとチャーマーズは次の点を挙げる。すなわち、外部オブジェクトが内部プロセスと同じ目的を果たしていることである。心と環境が「結合したシステム(coupled system)」として作用する場合、それ自体が完全な認知システムとみなされる。
背景・開発経緯
クラークとチャーマーズの1998年論文は、認知科学と心の哲学において広範な影響を与えた。この論文はデカルト的な「心は頭の中にある」という発想を根本から問い直し、認知は神経的・身体的・環境的プロセスによって構成されうるという主張を提示した[3]。
論文が発表されて以来、この論題は主にクラーク自身によって擁護・発展させられてきた。2008年にクラークは著書Supersizing the Mind: Embodiment, Action, and Cognitive Extension(Oxford University Press)を刊行し、拡張された認知の仮説の強力なバージョンを詳述した[4]。同書は、心理学・言語学・神経科学・人工知能・ロボット工学・ヒューマンコンピュータシステムなど幅広い分野の知見を援用しながら、「脳に縛られた」心観念に代わるものとして、拡張された認知のビジョンを論じている。
2021年には、科学ライターのアニー・マーフィー・ポール(Annie Murphy Paul)が一般向け書籍The Extended Mind: The Power of Thinking Outside the Brain(Houghton Mifflin Harcourt)を刊行した[5]。この書はクラークとチャーマーズの研究にインスパイアされ、人体・周囲の空間・他者の心という「神経外的(extra-neural)」リソースが集中力・理解力・創造性の向上にどのように資するかを論じ、ニューヨーク・タイムズエディターズ・チョイスおよびワシントン・ポスト2021年ノンフィクション・ベストブックに選出された。
主な内容・特徴
オットーとインガの思考実験
クラークとチャーマーズは、外部環境が心においていかなる役割を果たすかを示す思考実験として、オットー(Otto)とインガ(Inga)という二人の架空の人物を提示する[6]。
「インガは、近代美術館で展覧会が開かれていると聞き、そこへ行くことにした。彼女はしばらく考え、美術館が53丁目にあることを記憶から想起し、53丁目まで歩いて美術館に入った。一方、オットーはアルツハイマー病を患っており、多くの患者と同様に、日常生活の整理に環境中の情報を頼っている。彼はノートを常に携帯しており、新しい情報を記録し、必要なときにそれを参照する。オットーも同じ展覧会に行こうとし、ノートを見ると美術館の住所が53丁目と記されており、そこへ向かった。」
クラークとチャーマーズの論点は、インガの場合もオットーの場合も、認知のメカニズムが機能的に等価であるということである。両者の唯一の違いは、インガの記憶が脳内で処理されているのに対し、オットーの記憶はノートによって担われているという点にすぎない。したがって、オットーのノートは彼の心の延長として扱われるべきであり、これを「壊れやすい生物学的な手足や器官」と形容した。
同等性原理(Parity Principle)
この思考実験の根底には「同等性原理(Parity Principle)」がある。外部プロセスが、もし脳内のプロセスとして行われていたならば疑いなく認知プロセスの一部とみなされるような方法で機能している場合、その外部プロセスも認知プロセスの一部とみなされるべきであるという原理である[7]。
結合システムと情報の自己構造化
クラークは Supersizing the Mind において、思考のある形態は「脳・身体・世界の境界を縦横無尽に横断するフィードバック、フィードフォワード、フィードアラウンドのループの絡み合い」を含むと主張した[8]。結合システムが出力を生成し、それが入力として再循環されることで、システム全体の性能が向上するというプロセスは「情報の自己構造化(information self-structuring)」と呼ばれる。
批判と反論
拡張された心テーゼに対しては、哲学者フレデリック・アダムズ(Frederick Adams)とケネス・アイザワ(Kenneth Aizawa)を中心に、さまざまな批判が提起された[9]。
- 結合・構成の誤謬(Coupling-Constitution Fallacy)
- アダムズとアイザワが提起した主要な批判のひとつである。これは、あるオブジェクトや過程が認知エージェントと因果的に結合しているという事実から、そのオブジェクトや過程が認知エージェントの一部を構成するという結論へと飛躍することを「誤謬」と呼ぶものである。アダムズとアイザワは「なぜ鉛筆は2+2=4だと思ったのか?クラークの答え:数学者と結合していたから」という皮肉な例をもって、この問題を提示した[10]。
- 認知の肥大化(Cognitive Bloat)
- 拡張された心テーゼを文字通りに受け取ると、インターネット上のあらゆる情報が個々の認知システムの一部となってしまうという問題、いわゆる「認知の肥大化(cognitive bloat)」が生じるという批判がある[11]。
- クラークによる反論
- クラークはアダムズとアイザワの批判に対し、結合は認知にとって重要ではあるが十分条件ではないと応答した。計算機や鉛筆のような例は、それ単体では認知をもたらさない点において、孤立した神経領域と同様であるとした。また、生物学的な組織であることは認知の必要条件ではなく、仮説的なマルシアン(火星人)のビットマップ型記憶や記憶補助プロセシクを持つ人間が認知を示しうる可能性を挙げた[12]。
影響・評価
クラークとチャーマーズの1998年論文は、心の哲学・認知科学の両分野において最も広く引用される論文のひとつとなり、拡張された認知(extended cognition)、分散認知(distributed cognition)、身体化認知(embodied cognition)をめぐる活発な議論を触発した[13]。
2010年には、リチャード・メナリー(Richard Menary)編の論文集The Extended Mind(MIT Press)が刊行され、クラークとチャーマーズの提案への最良の応答を一堂に集めた[14]。同書にはクラーク自身による応答論文も収録されており、そこでは映画『メメント』の主人公がアムネジアに対処するためのメモや刺青を用いる様子を例として、拡張された心の機能を論じている。
批判を受けて、拡張された心テーゼのより穏健な再定式化も提案された。これは同等性原理(parity)に代わり、認知システムの内部的・外部的要素の「相補性(complementarity)」を強調するアプローチである。このバージョンは、心や認知の本質についてのオントロジー的主張としてではなく、認知科学に対する説明的価値を強調するものとして理解される。
関連文献
原著論文・著書
- Andy Clark and David Chalmers, The Extended Mind, Analysis, Vol. 58, No. 1, January 1998, pp. 7–19. doi:10.1093/analys/58.1.7
- Andy Clark, Supersizing the Mind: Embodiment, Action, and Cognitive Extension, Oxford University Press, 2008. ISBN 978-0-19-533321-3
- Richard Menary (ed.), The Extended Mind, MIT Press, 2010. ISBN 978-0-262-01403-8
- Annie Murphy Paul, The Extended Mind: The Power of Thinking Outside the Brain, Houghton Mifflin Harcourt, 2021. ISBN 978-0-544-94766-5
関連論文
- Matteo Grasso, "The Mark of the Cognitive and the Coupling-Constitution Fallacy: A Defense of the Extended Mind Hypothesis", Frontiers in Psychology, Vol. 8, 2017. doi:10.3389/fpsyg.2017.02061
- Andy Clark, "Coupling, Constitution and the Cognitive Kind: A Reply to Adams and Aizawa", in R. Menary (ed.), The Extended Mind, MIT Press, 2010.